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倭の五王 わのごおう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

倭の五王
わのごおう

宋書』『南斉書』『梁書』など中国の六朝時代の史書に記された倭国 (さん) ,珍 (ちん) ,済 (せい) , (こう) , (ぶ) の5人の王をさす。 413年倭王が東晋へ,425年倭王讃へ,438年王讃の弟珍 (『宋書』は珍,『梁書』は弥とする) が宋へ,443,451年倭王済が宋へ,462年倭王済の子興が宋へ,478年倭王興の弟武が宋へというように,5世紀に東晋,宋へ使いを送った。天皇の名は中国風に,字音または訓をかりて1字に表わしたものである。この5人の王は『日本書紀』にはみえないので,九州の土酋が入貢したものとする説もあったが,いずれも大和朝廷の王とするのが普通である。すなわち武は第 21代に数えられる雄略天皇,興は第 20代に数えられる安康天皇,済は第 19代に数えられる允恭天皇とすることは通説となっている。珍は第 16代に数えられる仁徳天皇,あるいは第 18代に数えられる反正天皇とする2説があり,讃は第 15代,第 16代,第 17代に数えられる応神,仁徳,履中の諸天皇をあてる3説がある。毎回,使者は倭の産物を献じているが,遣使の主要な目的は朝鮮半島に勃興してきた高句麗に対抗するため,倭国の地位および大和朝廷の朝鮮半島支配を中国に承認させ,それによって半島における立場を強化しようとしたものであった。倭王武は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号を宋から与えられた。『宋書』の蛮夷伝にある武の 478年遣使の際の上表文に,「東は毛人 55国を征し,西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって,大和朝廷の国土統一,半島遠征の状況過程を伝えている。 413年に始った倭王の遣使は 502年梁へのものを最後として 600年の隋との再開までとだえた。

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百科事典マイペディアの解説

倭の五王【わのごおう】

5世紀の倭国王,讃(さん)・珍(ちん)(弥(み))・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)。《宋書(そうじょ)》など六朝(りくちょう)の史書に,たびたび中国に遣使して日本および朝鮮諸国の支配者たる地位を認めてもらおうとしたことや,5人相互の続柄などがみえる。
→関連項目冊封体制天皇大和政権

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世界大百科事典 第2版の解説

わのごおう【倭の五王】

5世紀に中国南朝と交渉をもった5人の倭国王。の五王と中国南朝との交渉は,421年,倭讃がに使者を派遣したことから始まった。宋の武帝は倭讃の朝貢を喜び,これを任官した。任官内容は不明であるが,のちの例から見ると,倭讃はこのとき,安東将軍・倭国王という官爵号を授けられたものと思う。讃は,こののち,425年,司馬曹達を派遣して国書を送った。この司馬が官か姓か論が分かれているが,当時の東アジアの外交事例からみて,将軍の属官で軍事にたずさわった司馬と考えてよかろう。

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大辞林 第三版の解説

わのごおう【倭の五王】

中国六朝時代の「宋書倭国伝」などに出てくる五人の倭国王。讃・珍・済・興・武と表され、日本古代の天皇を示したものとされる。讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭いんぎよう、興は安康、武は雄略の各天皇に比定される。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

倭の五王
わのごおう

中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書(そうじょ)』と『南史』では讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)、『梁書(りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが、珍彌などの字形の類似から生じた誤写にすぎず、いずれも同一の王をさすとみてよい。
 倭の五王と中国王朝との交渉は421年(永初2)の讃の宋への遣使に始まる。宋はこの遣使を喜び、讃に「除授」を賜った。このとき、讃が授けられた官爵号は史料に明記されていないが、その後の倭王の例からみると安東将軍・倭国王であった可能性が濃い。3世紀の「親魏倭王」以来、約1世紀の空白ののち、ここにふたたび「倭国王」が誕生したことになる。なお、宋は前年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗(こうくり)王や百済(くだら)王もその地位を進められたが、倭国王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官された。この違いは、宋の前王朝である東晋(とうしん)との交渉の有無と関係があり、倭国が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る。
 将軍に任じられた倭国王讃は将軍府を設置し、僚属として長史・司馬(しば)・参軍を置くことができるようになった。このうち長史は将軍の補佐で、文官をつかさどり、司馬は長史に次ぐ地位で、軍事に携わった。425年(元嘉2)讃が宋に派遣した「司馬曹達」は、当時の外交慣例からみて、この制度を利用したものである。つまり、司馬の曹達を遣宋使の長官に任じたことになる。これは、高句麗王や百済王が長史を遣宋使に任じたのと比べると倭国外交の一大特色であり、倭国王の外交姿勢を示すものとみることができる。なお、『宋書』には430年(元嘉7)の「倭国王」の遣使を伝えているが、この遣使も讃のものと考えられる。
 讃の死後、弟の珍がたつと、438年(元嘉15)、珍は自ら「使持節、都督倭・百済・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、上表してこれらの官爵号の承認を宋に求めた。当時、百済王が宋から授けられた官爵号は「使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」であるから、これと比較すると倭王の要求ははるかに広範囲なものであった。つまり、珍は倭国と百済を含めた南朝鮮諸国の軍事的支配権と倭国内部の正統王権の承認を求めたことになる。しかし、宋が許可したのは安東将軍・倭国王の称号のみであった。また、珍は同時に倭隋ら13人に平西将軍などの将軍号を仮授して、その任官を希望したが、これはそのまま認められた。なお、倭隋の「倭」は当時の倭国王の「倭讃」や「倭済」などと共通するものであり、「倭」は王姓、倭隋は王族ということになる。珍は王族将軍倭隋らを支持基盤として南朝鮮の軍事的支配に臨もうとしたのである。
 443年(元嘉20)倭国王倭済が遣使すると、宋朝は前例に倣い、済をまた安東将軍・倭国王に任じた。済はこの後、451年(元嘉28)に「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、軍号も「安東大将軍」に進められた。また、「并(なら)びに上(たてま)つる所の23人を軍郡に除」せられたという。これはおそらく前王の珍に倣ったものであり、済は自己の支配体制を支えるものとして23人もの大量の任官を願ったのであろう。なお、ここに出てくる「軍郡」とは、百済の事例から「将軍・郡太守」の意味である。これらの将軍・太守が活躍する地域は倭国王の称号と関係づけて考えてよかろう。『宋書』によると、こののち460年(大明4)にも倭国から遣使があったと伝えるが、このときの倭国王は済であったと思われる。
 済の死後、その世子の興が王位につき、462年(大明6)遣使すると、宋はまたこれを安東将軍・倭国王に任命した。『宋書』にはこののち、477年(昇明1)にも倭国からの遣使を伝えるが、これも興のものと思われる。興の死後、弟の武は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と自称し、さらに開府儀同三司を称して、478年(昇明2)宋朝に遣使し、対高句麗戦を訴えた。宋はこの訴えに直接的にはこたえなかったが、武を「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命した。この任官は従来の倭国王の最初の任官と比べれば飛躍的な発展であり、武の外交の成果とみることができる。こののち、武は479年(建元1)には南斉から鎮東大将軍に、502年(天監1)には梁(りょう)から征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められた。だが、これらの進号は武の直接的な外交とは関係のないもので、いずれも王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある。
 なお、倭の五王を『日本書紀』の伝える天皇に比定し、讃を応神(おうじん)・仁徳(にんとく)・履中(りちゅう)、珍を反正(はんぜい)、済を允恭(いんぎょう)、興を安康(あんこう)、武を雄略(ゆうりゃく)などにあてることが多い。しかし、比定の論拠となっている年時・系譜ともに問題があり、なお慎重な検討が必要である。[坂元義種]
『坂元義種著『古代東アジアの日本と朝鮮』(1978・吉川弘文館) ▽坂元義種著『倭の五王――空白の五世紀』(1981・教育社)』

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世界大百科事典内の倭の五王の言及

【大和朝廷】より

…その主体となった倭王もヤマト王権をさす。つづいて,《宋書》を中心に,中国の南朝と通交した倭の五王がみえる。讃,珍,興,済,武の倭王が応神から雄略までの範囲におさまることは疑いなく,その期間は東晋の安帝義熙9年(413)より宋の順帝昇明2年(478)におよび,このあとの斉,梁の479年,502年の記事は通交を伴うものではない。…

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