改訂新版 世界大百科事典 「日峰宗舜」の意味・わかりやすい解説
日峰宗舜 (にっぽうそうしゅん)
生没年:1368-1448(正平23・応安1-文安5)
室町期の臨済宗の僧。日峰は字で,諱(いみな)を宗舜といい,勅諡号(ちよくしごう)は禅源大済禅師。山城国嵯峨に生まれ,俗姓は藤原氏,のち河嶋氏を称した。9歳で天竜寺の塔頭(たつちゆう)本源庵に入り,夢窓疎石の弟子岳雲につき,諱を昌昕(しようきん)と称した。のち遠江(とおとうみ)奥山方広寺の開山無文元選に参じ,さらに妙心寺開山関山慧玄の法孫である摂津西宮海清寺の無因宗因に師事し,その法を継いだ。このとき宗舜と諱を改め,無因の没後尾張犬山に青竜山瑞泉寺を開創し,無因を勧請(かんじよう)開山として同寺に住した。ときに妙心寺は応永の乱で足利義満に寺地寺領を没収され,竜雲寺と称していたが,1432年(永享4)開山塔である微笑塔(みしようとう)の敷地が返却された。その荒廃した妙心寺復興のために第7世妙心寺住持として上洛し,微笑塔の隣接地に養源院の小院を建てて妙心寺の再興に力を尽くした。禅僧としての名は高まり,細川持之(春巒居士)の帰依を受けた。42年(嘉吉2)死期の迫った持之は日峰を招き,〈生死到来す,如何か回避せん〉と問い,〈本来生に生なく,生来死に死去なし,更に甚什(なん)の回避とか説かんや〉との日峰の答を聞いて合掌して死去したという。晩年,日峰は関山派から初めて大徳寺に勅を奉じて入寺し,大徳寺第36世住持となった。弟子に義天玄詔(ぎてんげんしよう),雲谷玄祥(うんこくげんしよう),桃隠玄朔(とういんげんさく)などがいる。
執筆者:竹貫 元勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報