〈京都・山城寺院神社大事典〉
開創は建武二年(一三三五、正法山妙心禅寺記)・同三年(関山国師別伝)・同四年(妙心寺六百年史)・暦応元年(一三三八、正法山六祖伝考彙・六祖伝別考)などの諸説があり確定できない。暦応五年(一三四二)花園上皇は、
との院宣(妙心寺文書)を下し、京都仁和寺領花園御所跡を関山に管領せしめており、ここに妙心寺の寺基が確立した。開創年次もこれを下ることはない。関山が入寺すると、上皇起居の所として
とあり、河内国
との院宣(妙心寺文書)を下して幕府に善処方を求め、同五年五月九日幕府は彦部七郎の濫妨の停止を命じた(「禅律方頭人奉書」同文書)。これをうけた河内守護高師泰は妙心寺領妨害をとどめるべく下知している(同年五月二五日「河内守護高師泰遵行状」同文書)。この寺領紛争の始まった貞和三年、花園上皇は次のいわゆる「往年の宸翰」(同文書)を下し、仏法興隆の強い志と妙心寺における一流再興、同寺造営のことを述べ、関山に期待した。
関山はこの頃妙心寺の後事を雲山宗峨に託し、遠江
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京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派の総本山。正法山と号する。花園上皇は大徳寺開山の宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)(大灯国師)に参禅して禅要をきわめていたが,1337年(延元2・建武4)妙超が病臥すると,その離宮の萩原殿を寺に改め,住持の推挙と寺号の命名を妙超に求めた。妙超は法嗣の関山慧玄(かんざんえげん)を推し,正法山妙心寺と名づけたのが当寺の起源である。慧玄は権力に接近することを嫌い,修業第一に徹し,清素な生活の中で峻厳枯淡の禅を追求したが,この開山の禅風はその後の当寺の伝統となった。すなわち室町時代の当寺は,夢窓疎石や円爾弁円(えんにべんえん)の門派が拠った五山叢林の世俗的な意味での興隆をよそに,ごつごつと禅本来の姿を求める在野の禅,いわゆる林下(りんか)の禅の道をたどった。この間,1399年(応永6)応永の乱で,住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)と乱を起こした大内義弘が親しかったとの理由で足利義満に寺領や末寺を没収され,かつ寺号を竜雲寺と改めて南禅寺徳雲院の廷用宗器に付与されて,一時中絶の憂目をみた。永享年間(1429-41)廷用が日峰宗舜(につぽうそうしゆん)を住持させて再建をはかったが,応仁の乱でまた兵火にかかった。
乱後,雪江宗深(せつこうそうしん)が後土御門天皇の綸旨を得て,細川管領家の帰依と援助のもとに再興の業を推進し,他方で会計を厳重にして経営安定につとめた。いま当寺には室町中期から幕末に至る膨大な量の会計簿《正法山妙心禅寺米銭納下帳》が残されて,中世近世の経済史の貴重な史料となっている。健全な禅は安定した寺院経済を基礎にして成立するという当寺の伝統は,禅を茶道に密着させた大徳寺の禅を評して〈大徳寺の茶づら〉というのに対して,〈妙心寺のそろばんづら〉という呼称を世間に生むもととなった。宗深のあと,門下に東陽英朝(1428-1504),景川(けいせん)宗隆(1425-1500),悟渓宗頓(1416-1500),特芳禅傑(1419-1506)の四傑が現れ,妙心寺の宗勢は戦国期に興隆した。今川氏に迎えられた大休宗休(だいきゆうそうきゆう),太原崇孚(たいげんすうふ),武田家の帰依をうけた快川紹喜(かいせんじようき)などは当寺の寺僧であり,妙心寺派は戦国群雄と結んで盛んに地方に進展した。近世前期も豊臣・徳川両家の諸大名が多く当寺の禅に傾倒し,伽藍造営や諸塔頭(たつちゆう)の造営が続き,幕府も寺領491石余を寄せ,全盛期を迎えた。宗勢の伸張だけでなく,開山慧玄の禅風をついでその伝法と修業が重視され,近世初期に傑僧愚堂東寔(ぐどうとうしよく)(1579-1661)が現れ,ついで江戸中期に寺僧白隠慧鶴(はくいんえかく)が妙心寺禅に新境地を開き,いわゆる白隠禅を確立した。この白隠門派の禅がやがて妙心寺の禅を席巻し,ついで南禅・相国など五山派の大寺にまで広まり,江戸後期になると白隠禅は日本臨済界の主流となり,それが今日に続いている。現在の妙心寺は臨済宗最大の門派で,末寺3400余を擁している。
執筆者:藤井 学
伽藍は山門,仏殿,法堂(はつとう)が南北に一直線に並び,後方に方丈,庫裏が配され,大徳寺とともに近世禅宗寺院伽藍配置の典型。最古の建築は小方丈(1470ころ)で,山門(1599),勅使門(1610)がこれに次ぎ,法堂,大方丈,寝堂などは4代将軍徳川家綱の時代に造営された(いずれも重要文化財)。なお山門前庭と大方丈,小方丈の庭園は国の名勝・史跡。寺宝のうち《三酸及寒山拾得図》《琴棋書画図》《花卉図》(いずれも重要文化財)の3屛風は金地に水墨画を描き,海北友松の代表作。《花園天皇御像》(重要文化財)には宸賛があり,鎌倉時代の似絵(にせえ)の代表作。梵鐘(698,国宝)は〈黄鐘調(おうじきちよう)の鐘〉と呼ばれ,形体と音色の優れていることで著名。現存在銘の鐘としては最古の遺品。
山内の塔頭は江戸時代に著しく増加して盛時には90余院が並び建ったが,現在でも47院の多きに及ぶといわれる。玉鳳院は花園上皇の閑居したところといい,もっとも古い塔頭。開山堂(室町,重要文化財)および四脚門(室町初期,重要文化財),庭園(名・史)がある。退蔵院には本堂(1602,重要文化財),庭園(名・史)があり,ひょうたんでなまずを押さえるという禅の公案を描いた《瓢鮎(ひようねん)図》(室町,国宝)は,水墨画の先駆者である如拙の確実な作品として唯一のもの。霊雲院には書院(室町,重要文化財)および《山水花鳥図》(重要文化財)があり,後者はもと書院の貼付画で,狩野派を確立した元信の筆と伝える。天球院の本堂(1635,重要文化財)には同時期の伝狩野山楽筆障壁画(重要文化財)152面があり,豪壮な桃山絵画が江戸期に入って穏やかな作風に変わっていく過渡期の優品。他に春光院の銅鐘(1577,重要文化財)はもと南蛮寺のものでイエズス会の徽章があり,春浦院の《福富草紙》(室町,重要文化財),東海庵の《瀟湘八景図》(伝元信筆,室町,重要文化財),竜泉庵の《猿猴図》(長谷川等伯筆,桃山,重要文化財)などが著名。
執筆者:谷 直樹
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京都市右京区花園(はなぞの)妙心寺町にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の大本山。山号は正法山(しょうほうざん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。もと花園天皇の離宮として造営され、萩原殿(はぎわらどの)と称した。花園天皇は退位ののち、1342年(興国3・康永1)に離宮を改めて禅寺とし、美濃(みの)(岐阜県)伊深(いぶか)の里から関山慧玄(かんざんえげん)を招いて開山とした。創建年については諸説ある。さらに上皇は寺内に玉鳳(ぎょくほう)院を営んで移り住み、日夜、関山慧玄について参禅された。応永(おうえい)の乱(1399)の際に住持拙堂宗朴(せつどうそうぼく)が大内義弘(よしひろ)に加担したということで、足利義満がその寺領を没収したため、一時、南禅寺徳雲院の管理下に置かれることになった。第7世日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)のときふたたび独立し、学徒を大いに教化し、荒廃した諸堂塔を復興したが、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)の兵火でまたも烏有(うゆう)に帰した。1477年(文明9)第9世雪江宗深(せっこうそうしん)(1408―1486)が後土御門(ごつちみかど)天皇の綸旨(りんじ)を奉じて再興し、中興の祖となった。その門下に特芳禅傑(とくほうぜんけつ)(霊雲派)、東陽英朝(とうようえいちょう)(聖沢(しょうたく)派)、悟渓宗頓(ごけいそうとん)(東海派)、景川宗隆(けいせんそうりゅう)(竜泉派)の四哲が出、それぞれ一院を開いて以降、寺門は大いに興隆する。また織田、豊臣、徳川をはじめとする諸大名の外護(げご)により伽藍(がらん)も旧に復し、五山十刹(じっせつ)のほかではあったが、臨済宗諸派の第一位を占めるまでに至った。同じ臨済宗の大徳寺とは江戸時代以後も長く争ったが、妙心寺には代々俊秀が輩出した。とくに近世後期に入って妙心寺派から白隠慧鶴(えかく)が出て、臨済宗の主流となった。
寺域は広大で庭園も優れ、堂舎二十数宇のうち、主要な建造物は桃山建築で、勅使門、山門、仏殿、法堂(はっとう)、寝堂(いずれも国重要文化財)など多くは唐様(からよう)である。方丈の襖(ふすま)絵は狩野探幽(かのうたんゆう)・益信(ますのぶ)の筆になり、庭園は国の名勝・史跡。そのほか日本最古の梵鐘(ぼんしょう)(黄鐘調(おうじきちょう)の鐘、国宝)、大燈(だいとう)国師墨蹟(ぼくせき)(国宝)や海北(かいほう)派の水墨画、頂相(ちんそう)など什宝(じゅうほう)も多い。塔頭(たっちゅう)は退蔵院、霊雲院、桂春(けいしゅん)院、東海庵(あん)、玉鳳院、春光院、春浦(しゅんぽう)院、天球院など48院を数え、末寺に至っては瑞巌(ずいがん)寺(宮城県)、平林(へいりん)寺(埼玉県)以下約3500か寺を擁する。
[平井俊榮]
『『古寺巡礼 京都10 妙心寺』(1977・淡交社)』▽『荻須純道著『妙心寺』(1977・東洋文化社)』▽『川上孤山著『妙心寺史』(1975・思文閣出版)』
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京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の大本山。正法山と号す。開山は関山慧玄(えげん),開基は花園上皇。開創の時期については諸説あるが,1342年(康永元・興国3)をそれほど遡らない時期。応仁・文明の乱で焼失したが,大徳寺の末寺的存在として存続。永正年中(1504~21)に独立し,細川氏・織田信長・武田信玄らの帰依をうけて発展。梵鐘・大灯国師墨跡印可状(ともに国宝)がある。
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…宋元画に対する研鑽が深く,散聖・列仙・禅宗祖師等を描く水墨画も多い。晩年には妙心寺の《琴棋書画図》《花卉図》《三酸・寒山拾得図》など金地着色屛風の作例も残す。また,宮中や公家に出入りし,桂宮家の《浜松図》屛風(宮内庁)なども作した。…
…1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春,大徳寺の沢庵宗彭,玉室宗珀,江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため,江戸幕府は態度を硬化させ,29年7月,あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に,玉室を陸奥国棚倉に,単伝を出羽国由利に配流し,さらに,1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。…
…はじめ京都建仁寺の五葉庵で文瑛禅師に師事したが,のち五山をはなれて,尾張犬山の瑞泉寺で日峰宗舜に参じ,さらに日峰の弟子義天玄詔に参禅してその法を継いだ。妙心寺塔頭(たつちゆう)養源院に住し,義天寂後細川勝元の帰依を受けて竜安寺の住持となり,1462年(寛正3)には大徳寺に奉勅入寺したが,義天の例にならって3日間で退いている。応仁の乱時には,丹波八木の竜興寺に逃れて学徒の指導を行い,乱後は妙心寺復興につとめ,77年(文明9)後土御門天皇より妙心寺再興の綸旨を得ている。…
…9歳で天竜寺の塔頭(たつちゆう)本源庵に入り,夢窓疎石の弟子岳雲につき,諱を昌昕(しようきん)と称した。のち遠江(とおとうみ)奥山方広寺の開山無文元選に参じ,さらに妙心寺開山関山慧玄の法孫である摂津西宮海清寺の無因宗因に師事し,その法を継いだ。このとき宗舜と諱を改め,無因の没後尾張犬山に青竜山瑞泉寺を開創し,無因を勧請(かんじよう)開山として同寺に住した。…
※「妙心寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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