日本映画。1953年(昭和28)松竹作品。木下恵介(きのしたけいすけ)脚本・監督。熱海の旅館で働く戦争未亡人の春子(望月優子(もちづきゆうこ)、1917―1977)には、洋裁学校と英語塾へ通わせている娘・歌子(桂木洋子(かつらぎようこ)、1930―2007)と医大生の息子・清一(田浦正巳(たうらまさみ)、1932― )がいる。しかし、二人は戦時中の幼少期に見た、男と戯れる母を軽蔑(けいべつ)し反発している。やがて、清一は資産家の養子になり、歌子は英語塾の妻子ある教師の男(上原謙(うえはらけん)、1909―1991)と駆け落ちする。絶望した春子は列車に身を投げる。冒頭のニュース映像が、戦後社会の現実を映し出す。春子はこの酷薄な現実に抗してなりふり構わず子どものために尽くすのだが、その代償はあまりにも厳しく切ない。ギターで「湯の町エレジー」を弾き語りする艶歌(えんか)師(佐田啓二(さだけいじ)、1926―1964)が最初と最後に登場し、春子の同僚だった料理人(高橋貞二(たかはしていじ)、1926―1959)とともに彼女を追悼する。過去と現在を回想形式でつなぎ、ドキュメンタリー的に春子の直面する現実を、感傷を排して冷酷に描き出した傑作である。キネマ旬報ベスト・テン第6位。
[坂尻昌平]
…木下恵介脚本・監督による映画,1954年作品。戦後日本の社会のゆがみから必然的に生まれた伝統的家族制度の崩壊を非情に描いた《日本の悲劇》(1953)と,戦争と軍国主義に貫かれた貧しく不幸な20年間の昭和史を詩情豊かに描いた《二十四の瞳》(1954)の間に作られ,それらとともに〈木下恵介監督の作家活動の一つの頂点をなすもの〉(佐藤忠男)と評価されている。〈逆コース〉と呼ばれた社会風潮の中で,〈民主化〉を巡る学園紛争が学生側の視点から描かれる。…
…《戦ふ兵隊》は公開禁止になり,亀井は逮捕,投獄された。日本の文化映画の古典的名作とみなされるに至る短編(記録映画というよりは小林一茶の句と貧しい日本の農民の生活風景をからみ合わせ,ときには対位法的にモンタージュした作品)《小林一茶》(1941)にその戦闘的姿勢を一時〈後退〉させたあと,日本帝国主義と天皇制の侵略史をあばいた記録映画《日本の悲劇》(1946)を完成させるが,アメリカ占領軍に没収された。以後は山本薩夫と共同監督の《戦争と平和》を契機に劇映画に転向(《女の一生》1949,《女ひとり大地を行く》1953,等々),1953年の《基地の子たち》から,また記録映画に戻り,《生きていてよかった》(1956),《流血の記録・砂川》(1956)等々を撮ることになる。…
…以来,好敵手とみなされ,実際,お互いの戦後第1作,木下《大曾根家の朝》と,黒沢《わが青春に悔なし》(ともに1946)は,〈戦後の民主的な日本映画の最初の代表作〉(岩崎昶)になる。戦争の悲劇や反戦の思想を描いたヒューマニズム映画(《陸軍》1944,《日本の悲劇》1953,《二十四の瞳》1954)からロマンティック・コメディ(《お嬢さん乾杯》1949,《カルメン故郷に帰る》1951,《今年の恋》1962)に至るまで,多種多様の主題と傾向の映画をこなすが,その底に共通する二つの大きな特質は〈抒情〉と〈モダニズム〉ということばでしばしば呼ばれるものである。戦後最大の〈催涙映画〉といわれた《二十四の瞳》から《喜びも悲しみも幾歳月》(1957)に至る抒情と感傷,そして,日本最初の国産カラー(フジカラー)による長編劇映画の実験(《カルメン故郷に帰る》),〈純情す〉という新しいことばの使い方にこめられたモダンな感覚(《カルメン純情す》1952),回想シーンをすべて白くぼかした楕円形で囲む試み(《野菊の如き君なりき》1955),歌舞伎の舞台の転換や義太夫,長唄を使った話法(《楢山節考》1958),モノクロを基調にした画面に効果的にほんの一部分だけ着色したパート・カラー方式(《笛吹川》1960)等々のさまざまな新趣向のテクニックを駆使した。…
※「日本の悲劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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