ケンペル著の日本風物誌。ドイツ語の原著は英訳本(1727)の50年後に出版。1690年(元禄3)9月来日のオランダ商館付ドイツ人医師ケンペルは,92年10月離日までの間に商館長の参府に従って2回江戸に上った。多方面の知識と教養と犀利な観察眼によって,日本の社会,風俗,政治,経済,宗教,歴史から動植物に至るまで観察記述し,みずから挿図の下絵を描いてまとめた。それまでほとんど想像の世界として描かれていた日本を,はじめて正確に記述してヨーロッパの読書界に紹介した書。邦訳に《日本誌--日本の歴史と紀行》のほか,抄訳として《ケンプェル江戸参府紀行》(《異国叢書》所収),《江戸参府旅行日記》(《東洋文庫》所収)などがある。
執筆者:片桐 一男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1690~92年(元禄3~5)日本に滞在したドイツ人ケンペルの著書。通詞今村源右衛門の協力で,日本の自然・歴史・政治・宗教・貿易などについてのべた本格的な日本研究書。ケンペルの死後,遺稿を買いとったスローン卿のもとショイヒツァーが英訳,1727年ロンドンで出版,フランス語とオランダ語に重訳された。その後自筆といわれるドイツ語稿本が発見され,ドームによってレムゴーで出版された。日本には早くから蘭訳本が輸入され,蘭学者志筑忠雄の「鎖国論」抄訳が有名。「参府紀行」部分の呉秀三訳(「異国叢書」所収),今井正訳がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…それは,江戸幕府が内外の情勢に対応して集権的な権力を確立する過程の一環として打ち出されたもので,日本列島が当時の世界交通の辺境である東北アジアにあり,大陸と海で隔てられているという地理的条件と,季節風と海流を利用した帆船の技術的条件によって,長期にわたる状態の固定が外部から支えられた。 〈鎖国〉の語は,1801年(享和1)長崎の通詞で著名な蘭学者でもあった志筑忠雄がケンペルの《日本誌》の一章を翻訳し〈鎖国論〉と題したときに始まる。ケンペルは鎖国状態のもたらす効用を肯定的に記述したのであったが,英訳からの重訳であるオランダ語版は,その是非を問う表題になっていた。…
…またオランダ語の文法を明らかにした《和蘭詞品考》は,1814年(文化11)門人馬場佐十郎が《訂正蘭語九品集》として出版,蘭語研究に画期的な貢献をした。ケンペルの《日本誌》から鎖国の可否を論じた章を訳注した《鎖国論》(1801成立)も注目される。【有坂 隆道】。…
…鎖国後もイエズス会の日本研究は続けられ,カナダ布教をし《トレブー百科事典》の編集に22年も従事したフランス人シャルルボアPierre François Xavier de Charlevoix(1682‐1761)は,《日本切支丹史》3巻(1715)で広く影響を与えたが,現地で資料を使えるのは平戸,長崎のオランダ商館に居住を許される者のみになった。約20年間在日したF.カロンは《日本大王国志》(1648)をオランダ語で書き,1690年(元禄3)に来日したE.ケンペルは《日本誌》《江戸参府旅行日記》を,1775年(安永4)来日したC.P.ツンベリーは《日本植物誌》《日本紀行》を,1823年(文政6)来日したシーボルトは《日本》を刊行した。カロンはフランス人で,《セビリャの理髪師》《フィガロの結婚》を書いたボーマルシェの大伯父にあたり,ケンペル,シーボルトはドイツ人,ツンベリーはスウェーデン人でリンネの高弟の植物学者である。…
※「日本誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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