768年に奈良市の
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〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
社伝によれば、神護景雲元年(七六七)六月二一日、武甕槌命が常陸国
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奈良市春日野(かすがの)町に鎮座。第一殿に武甕槌命(たけみかづちのみこと)、第二殿に経津主命(ふつぬしのみこと)、第三殿に天児屋根命(あめのこやねのみこと)、第四殿に比売神(ひめかみ)の4柱を祀(まつ)っている。鎮座地は御蓋山(みかさやま)(三笠山)の麓(ふもと)で、ナギ、アシビ、サカキなどの深い樹叢(じゅそう)に囲まれた浄域となっている。当大社は、710年(和銅3)都が奈良に移されると、藤原不比等(ふひと)が、神代に功績のあった、また同氏が氏神として崇(あが)める常陸(ひたち)(茨城県)鹿島(かしま)神宮の武甕槌命を、都の東方、御蓋山の頂上浮雲峰(うきぐものみね)に祀り、国土安穏、国民繁栄を祈ったのが、その始まりといわれている。765年(天平神護1)には鹿島神宮の封戸(ふこ)の一部を春日神に寄進し、祭祀(さいし)にあてている。この方式は、関東に多い鹿島御子(みこ)神社の草創期当初と同様である。称徳(しょうとく)天皇の768年(神護景雲2)11月9日、現在の地に社殿、瑞垣(みずがき)、鳥居を造営し、下総(しもうさ)(千葉県)香取(かとり)神宮の経津主命、河内(かわち)(大阪府)枚岡(ひらおか)神社の天児屋根命・比売神の3柱の大神をともに祀り、四社明神として崇め奉ったのである。『三代実録(さんだいじつろく)』の元慶(がんぎょう)8年(884)の条によると、朝廷より琴の奉献があり、これは、768年に寄進したものが破損したためであると記されている。創建以来、朝野の厚い崇敬が寄せられ、一条(いちじょう)天皇989年(永祚1)2月22日の行幸をはじめ、行幸・御幸三十余度を数える。当然のことながら藤原氏一門の崇敬は厚く、また衆庶の参拝も数多く、折々の祈願、慶祝、報賽(ほうさい)には、種々の神宝、調度、灯籠(とうろう)の寄進があり、とくに奉納された灯籠の数はおびただしく、春日の万灯籠と称されている。『延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)』には春日祭神4座が名神(みょうじん)大社に列し、官幣にあずかっている。神仏習合思想の発展とともに春日大明神の霊験(れいげん)や縁起(えんぎ)が説かれるようになり、伊勢(いせ)神宮、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)と並んで三社といわれ、広く信仰されるに至った。春日信仰は、春日曼荼羅(まんだら)、三社託宣、『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』などに表現されており、全国至る所に春日社の分社が創祀(そうし)され、現在その数は3000社を超えるといわれている。とくに都の近くに分祀した、長岡京の大原野(おおはらの)神社、平安京の吉田神社は、いずれも官社に列している。国史上にも当社に関する記載は数多い。おもなものとして、官社二十二社の一に列したこと、春日祭を2月と11月上の申(さる)の日と定めたこと、斎女(さいじょ)の制をとったこと、神階が正一位となったことなどがあり、とくに興福寺の僧徒と春日社の神人(じにん)が、春日の神木を奉じて強訴(ごうそ)したことは歴史的に名高い。鎌倉時代になると、将軍源頼経(よりつね)は鎌倉に春日社を分祀している。明治維新の神仏分離令により興福寺の支配を離れ、官幣大社となる。1946年(昭和21)春日神社を春日大社と改称した。
[落合偉洲]
春日山原生林(特別天然記念物)を含む100万平方メートルの神域は動植物の宝庫である。境内に遊ぶ1000頭以上の神鹿(しんろく)(国の天然記念物)は名高く、これは、祭神武甕槌命が鹿島から御蓋山に遷座のときに乗ってきた白鹿が繁殖したものと伝え、神鹿として創建以来保護されている。ちなみに鹿島神宮の境内においても神鹿が飼われている。春日大社の本殿はとくに春日造(づくり)と称され、現在の本殿は1863年(文久3)に再建されたもので、国宝となっている。そのほか、一の鳥居(春日鳥居)、車舎(くるまやどり)、廻廊(かいろう)、幣殿などの諸建築物は国の重要文化財に指定されている。参道には2000の石灯籠、廻廊に1000の釣灯籠があり、もっとも古いものは1038年(長暦2)藤原頼通(よりみち)寄進のものと伝えられる。江戸末期までは各灯籠は毎夜ともされていたが、現在は2月の節分と8月14、15日に万灯籠としてすべてに火がともされる。なお、境内には、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀る若宮神社のほか、榎本(えのもと)神社、本宮(ほんぐう)神社、紀伊神社、水谷(みずや)神社の合計5社の摂社と、手力雄(たぢからお)神社をはじめとする41社の境内末社が祀られている。また境外末社として、高山(こうぜん)神社をはじめ15社が祀られている。若宮神社の祭神は本社の御子神(みこがみ)にあたり、社殿は本社と同規模で、国の重要文化財となっている。1998年(平成10)には、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
[落合偉洲]
例祭の春日祭は、明治以降に3月13日と定められ、現在に至っているが、勅使参向のもと厳粛に奉仕されており、加茂(かも)、石清水とともに三勅祭といわれている。また3月15日に御田植(おたうえ)祭が行われる。この祭は、第78代二条(にじょう)天皇の1163年(長寛1)正月申の日に始められたと伝えられている。摂社若宮神社の例祭「おん祭」(春日若宮おん祭)はとくに有名で、御旅所(おたびしょ)に神霊を奉遷し、神楽(かぐら)、舞楽、細男(せいのお)、田楽(でんがく)、猿楽(さるがく)、能、相撲(すもう)など多彩な内容と伝統ある神事芸能が奉納される。
[落合偉洲]
藤原氏一門、武家、庶民に至るまでその崇敬を物語る社宝は多い。とくに平安時代の工芸の粋を尽くした本宮・若宮の御料古神宝類、平安・鎌倉・南北朝時代にわたる刀剣・甲冑(かっちゅう)の優品、春日曼荼羅(まんだら)、舞楽面、絵巻、文書類など国宝、国重要文化財に指定されるものも多く、それらは宝物殿に収蔵・展観されている。
[落合偉洲]
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奈良市春日野町に鎮座。祭神は武甕槌(たけみかづち)命(常陸鹿島の神),経津主(ふつぬし)命(下総香取の神),天児屋根(あめのこやね)命(河内枚岡の神),同比売(ひめ)命の4座。768年(神護景雲2)左大臣藤原永手がその氏社として春日山の主峰御蓋(みかさ)山(三笠山)の山麓に創建したという。なお祭神の鹿島大神などは,古くに春日山にまつられたが,このおり御蓋山に4祭神をそろえ祭祀する社地を確立,平城京鎮護の官社として春日神社が成立したのである。やがて841年(承和8)春日山を神山とする勅命が発せられ,それ以降藤原氏氏長者(うじのちようじや)は同氏の繁栄を祈って春日祭祀の振興や春日社の拡充に着手した。春日祭に斎女が加えられ2月,11月の2季の盛儀としたのに始まり(申の日が祭日なので申祭(さるまつり)という),春日(かすが)造の4神殿のほか社殿を増築,境内地を大拡充して9世紀末にはほぼ現状に近い盛観を示した。摂政・関白・氏長者として栄華をきわめる藤原氏北家(摂関家)はすべて春日大明神の威徳によるものとして春日社の祭祀に努めたのである。とくに氏長者の参詣は春日詣(かすがもうで)といわれ,春日祭にも倍する盛儀となり,また行幸や御幸なども頻繁となった。そのつど,神宝や芸能および神領が奉納寄進された。この春日社の繁栄を見た興福寺は,神仏習合思想を利用して,春日社の同寺鎮守化や社頭読経法会の執行を念願,とくに春日四所大明神の本地を釈迦・薬師・地蔵・観音と説いて興福寺の春日社祭祀の道理を主張,さらに春日社武力の春日神人(じにん)を手なずけて無理を強行するに至った。同寺衆徒は1135年(保延1)に春日若宮神社を創建,氏長者に強請して翌年9月から御旅所を春日野の興福寺境内に仮設して若宮祭(若宮御祭(おんまつり))を一国の祭りとして執行した。この若宮祭の創始によって興福寺は春日社との一体化を完成,春日社興福寺の大組織を現出し,神仏をともにおがむ春日信仰を興隆させた。春日大明神は仏教の護法神として慈悲万行菩薩と名のり,その慈悲の神徳が輝いた。
12~13世紀に春日社は全盛期を迎え,興福寺が大和国は春日大明神の神国と主張するに至った。春日野には東西両塔が並立,社頭近く談義屋や祈禱屋などが続出,1178年(治承2)の造替には従来の板垣を改め,神殿や社殿をそれぞれ回廊で囲い,これに楼門を設け,釣灯籠や石灯籠をかざった。なお,天児屋根命の天照大神に対する補佐の神功が神国思想の勃興とともに語られ,春日社は国家の宗廟たる伊勢神宮,石清水八幡宮と並んで三社と称せられ人気をあげた。当代,興福寺は大和守護職として大和を支配,なお,春日社の末社が広く各地に普遍,神仏習合の春日信仰を語る芸能,神鹿・社寺を描いた《春日曼荼羅》や春日験記絵ないし三社神号(三社託宣)軸などが流布する。鎌倉・室町および江戸の歴代将軍家はこの神威を仰ぎ,興福寺の春日社支配を是認,神領を寄進,式年造替などを官営工事とするなど春日社を厚く保護した。明治維新のさい,神仏判然令によって社頭の仏教色は排除され,祈禱屋などは撤去されたが,平安朝初期の古式に復した観もある。1871年(明治4)官幣大社春日神社と称し,御蓋山や春日野の大半をその境内地となし,春日祭(勅祭),若宮祭を振興した。1946年春日大社と改称された。
執筆者:永島 福太郎
本殿は,南面して東西に軒を接して並立する4棟からなる。東を第一殿とし西を第四殿とする。各神殿は正面1間,奥行1間,土台の上にたつ切妻造,妻入りで,正面に扉口を設け,前面にだけ高欄つきの縁をつけ,木階段を設け,角柱1本をたてて上に階隠(はしかくし)をつける。屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で階隠と母屋とを巧みに連続しておさめる。棟上に千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)をあげる。軸部は丹塗,堅魚木は黒塗,縁や木階段は白木のままである。この本殿形式を春日造と呼ぶ。興福寺領を中心としてその周辺でおもにおこなわれている。春日社では中世以来20年ごとの式年造替の制をもち,現在の本殿は1863年(文久3)の造替のものである。造替のさいに移した,いわゆる春日移殿は興福寺領に数多くある。春日造は流(ながれ)造についで各地にみられるが,この多くは母屋と階隠の納まりに隅木を用い,入母屋造のような扱いをしており,隅木入春日造と呼び分けられ,これらは春日社の系統でないものも含まれる。
執筆者:宮沢 智士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良市春日野町に鎮座。式内社・二十二社上社。旧官幣大社。祭神は武甕槌(たけみかづち)命・経津主(ふつぬし)命・天児屋根(あめのこやね)命・比売(ひめ)神。創祀に諸説あるが,もとは御蓋(みかさ)山を神奈備(かんなび)として西麓に神地が設定され,768年(神護景雲2)祭神を整備して神殿を造営したとみる説が有力。祭神は鹿島・香取・枚岡(ひらおか)の各社からの勧請とされる。藤原氏の氏神であるとともに当初は平城京の鎮護神ともされ,850年(嘉祥3)武甕槌命・経津主命が正一位に昇った。平安中期以降は興福寺の鎮守とされ,南都僧兵の強訴には春日の神木が用いられた。920年(延喜20)の宇多法皇の御幸以降,天皇行幸が行われ,1385年(至徳2・元中2)の足利義満以降,室町将軍の参詣も行われるなど,朝廷・武士からも信仰された。例祭(春日祭)は3月13日(以前は2・11月の上申の日)。神殿は中世以降20年ごとに造替が行われ,1863年(文久3)造営の現本殿は国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…〈かすがまつり〉ともいう。奈良市春日野町に鎮座する春日大社の例祭。賀茂祭(葵(あおい)祭),石清水(いわしみず)祭と並ぶ三大勅祭の一つ。…
…奈良春日大社の神体山である御蓋(みかさ)山を背景に社殿や祭神などを描いた垂迹(すいじやく)画。平安時代末期から中世にかけて多く制作され,礼拝された。…
…現在,国宝あるいは重要文化財に指定されている本殿を分類すると,流造に属するものが総数の55%を超え,春日造がそれに次ぐ(表)。春日大社本殿に代表される春日造は春日大社を中心とする近畿地方の一部にのみ限られ,また春日造を改良したいわゆる隅木入り春日造は,熊野信仰の浸透したやや広い範囲に分布する。しかし流造はこのような特定の神社や信仰と結びついている痕跡がなく,その分布は全国的に行きわたっている。…
…有名なものに,京都の伏見稲荷大社や奈良の大神神社の験(しるし)の杉,福岡の香椎宮の綾杉,太宰府天満宮の梅,北野天満宮の一夜松(ひとよまつ),滋賀の日吉大社の桂,熊野大社,伊豆山神社の梛(なぎ),新潟の弥彦神社の椎などがある。奈良春日大社の神木(榊に神鏡を斎(いわ)いつけたもの)は中世に何度か興福寺の衆徒が春日大明神の御正体と称して担ぎ出し,朝廷に強訴(ごうそ)する手段とされた。【薗田 稔】。…
※「春日大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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