普通選挙運動(読み)ふつうせんきょうんどう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「普通選挙運動」の意味・わかりやすい解説

普通選挙運動
ふつうせんきょうんどう

男子普通選挙法の獲得を目ざし、1892年(明治25)から1925年(大正14)まで行われた社会運動普選運動略称。この30年余の間の運動には、時期によって担い手や位置づけに変化があり、数期に分けられる。なお自由民権期には一部の人々により先駆的に普通選挙説が唱えられたが、制限選挙説が圧倒的に多いなかで、普選運動はみられない。

[阿部恒久]

第1期

1890年代に入り、産業革命の進行、資本主義発展につれて社会問題が発生すると、その解決策を普通選挙法にみいだして運動する人々が現れた。92年11月大井憲太郎(けんたろう)らは自由党を脱し東洋自由党結成、党内に普通選挙期成同盟会を設立し、初めて運動に着手した。ついで97年7月長野県の松本で中村太八郎(たはちろう)、木下尚江(なおえ)らにより同名の組織が創立された。後世「普選運動の父」とよばれた中村はその直前、東京で樽井藤吉(たるいとうきち)らと社会問題研究会を組織している。双方とも若干の演説会活動などを行った程度で消滅・中断したが、運動に先鞭(せんべん)をつける意義をもった。

[阿部恒久]

第2期

1899年2月中村は松本で同会を再興し(普通選挙同盟会と改称)、一方ほぼ同時期に東京でもそれに呼応して普通選挙期成同盟会が発足した(のち普通選挙同盟会と改称)。この2組織は演説会などの啓蒙(けいもう)活動のほか、協力して議会への請願活動を開始。『萬朝報(よろずちょうほう)』『二六新報』などの有力紙がこれを支援し、さらに社会主義研究会や労働組合期成会の人々も運動に加わり、知識人中心ではあったが、自由主義者と社会主義者の連帯による幅広い運動に前進した。1902年(明治35)2月衆議院に初めて普通選挙法案が提出され(否決)、日露戦争中は一時的に停滞したが、戦後ふたたび大きな盛り上がりを示し、既成政党有志の参加も多くなった。なおこの時期、社会主義者のうち直接行動派は運動から手を引いたが、片山潜らは運動を続けている。11年3月普通選挙法案が初めて衆議院で可決された。しかし貴族院は否決、ついで政府の圧迫で普通選挙同盟会は解散に追い込まれ、さらに既成政党は党議によって同法提出を禁止するに至った。同時期大逆事件があり、藩閥勢力は普選運動を社会主義と結び付け、弾圧を強化したのである。

[阿部恒久]

第3期

以後、いわゆる「冬の時代」にあって表面上の運動は低調であった。そうした下でも普通選挙同盟会の再興が企てられたり、雑誌『第三帝国』などにより普通選挙説が主張され続けた。また1916年(大正5)吉野作造(さくぞう)の民本主義論の登場によって新たな理論的根拠を得、学生・青年層を中心に急速に普通選挙要求が広がり、友愛会などの労働組合も要求するに至った。

[阿部恒久]

第4期

1918年米騒動後、全国各地で普選運動が再開され、同年末から翌年初めにかけて大阪、東京、名古屋、京都などで学生、労働者を中心とする大集会が開催され、一部では街頭デモも行われた。この段階でジャーナリズムの多数が普通選挙を支持。これに対して政友会の原敬(はらたかし)内閣は時期尚早として反対し、自党に有利な納税資格3円(従来は10円)以上・小選挙区制を骨子とする選挙法改正を強行した。しかし運動はいっそう燃え上がり、20年2月の第42議会に、それまで時期尚早と反対してきた憲政会、立憲国民党が個別に普通選挙法案を提出するに至った。同案上程は10年ぶりのことである。その直前、東京では111団体数万人の街頭デモが敢行され、空前の盛り上がりを示した。これに対して原内閣は議会を解散し、前年制定の新選挙法で総選挙を実施、大勝。このため運動は一頓挫(とんざ)をきたした。また同年3月以降の第二次世界大戦後の恐慌下で労資対立が激化し、労働運動内にサンジカリズムの傾向が強まったこともあって、労働者の普選運動への取り組みも後退した。

[阿部恒久]

第5期

こうしたなかで、運動の担い手は各地の市民的政治結社に移り、その主導権は憲政会などの既成政党が握るようになった。1922年2月、憲政会、国民党は統一普通選挙法案を提出。これは絶対多数を誇る政友会により否決されたが、23年9月の関東大震災後、第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣が人心収攬(しゅうらん)のため普通選挙法の実現を打ち出すと一躍政治日程に上った。同年12月同内閣が倒れ、翌年1月清浦奎吾(きようらけいご)が官僚内閣を組織すると、憲政会、国民党、政友会は第二次憲政擁護運動を展開。この段階で政友会は普通選挙断行に転換し、護憲運動の中心要求に普通選挙法が据えられた。5月の総選挙の勝利によって、6月護憲三派内閣が発足。翌25年3月第50議会において普通選挙法が成立した(同年5月衆議院議員選挙法改正公布)。しかし、それは同時に制定された治安維持法によって左翼社会主義の否認を前提としたものとなり、女性や植民地人民を除外していた。このため女性は「完全普選」を要求し、「普選から婦選へ」をスローガンになおも運動を続けた。第二次世界大戦後ようやく完全普通選挙法が実現した。

[阿部恒久]

『松尾尊兌著『大正デモクラシーの研究』(1966・青木書店)』『松尾尊兌著『政党政治の発展』(『岩波講座 日本歴史19 現代2』所収・1963・岩波書店)』『松尾尊兌著『普通選挙制度成立史の研究』(1989・岩波書店)』『『選挙のあゆみ』(1995・国民参政105周年・普選70周年・婦人参政50周年記念会)』『白鳥令・阪上順夫・河野武司編『90年代初頭の政治潮流と選挙』(1998・新評論)』

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