急進的民権思想家、大アジア主義者。嘉永(かえい)3年10月12日大和(やまと)国(奈良県)に生まれる。上京して漢学を学ぶ。西南戦争に際しては西郷方で策動。1882年(明治15)長崎県島原で同志と東洋社会党を結成したが1か月で禁止され、翌年同党党則草案を配布して禁錮刑を受ける。84年清仏(しんふつ)戦争の際渡清、平岡浩太郎(こうたろう)、中江兆民(ちょうみん)らと上海(シャンハイ)に東洋学館を設立。また玄洋社員らと朝鮮独立党の金玉均(きんぎょくきん)を助けた。大阪事件に連座、その後も条約改正問題で投獄されるが、憲法発布の特赦で出獄、92年衆議院議員に当選。翌年『大東合邦論』を著し、日韓両国は合邦して大東国をつくり、清国と連合して西洋列強の侵略に抵抗すべきことを説いた。この構想は内田良平(りょうへい)らの天佑侠(てんゆうきょう)に影響を与え、のちに形を変えて日本の韓国併合を導いた。樽井自身も併合の提唱者と自負した。晩年は中国、朝鮮で鉱山の経営などを試みたが、いずれも失敗に終わった。
[岡部牧夫]
『竹内好編『現代日本思想大系9 アジア主義』(1963・筑摩書房)』▽『田中惣五郎著『東洋社会党考』(1970・新泉社)』
東洋社会党の創立者。奈良に材木商の子として生まれる。1868年(明治1)五ヵ条の誓文に感奮して上京,漢学を学ぶ。西南戦争では西郷隆盛に呼応した。82年5月肥前島原で東洋社会党を発会し,社会の平等と公衆の最大利福を綱領に唱えるが,6月内務卿より結党ならびに集会を禁止され,83年1月東洋社会党党則草案を頒布して,集会条例で軽禁錮1ヵ月に処せられた。出獄後は《佐賀日報》の編集に携わり,のち朝鮮独立党の金玉均と相知る。85年大井憲太郎の大阪事件に連座したが,大井らと関係のないことが判明し,釈放された。92年衆議院議員となる。晩年には鉱山経営にも手を出したが失敗した。その著《大東合邦論》(1893)では,欧米列強の侵略から共同防衛するために,日韓は対等合併すべきだと主張した。
執筆者:桂川 光正
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(酒田正敏)
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…大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。そして,樽井の創見を継承したのは内田良平である。…
…樽井藤吉の著書。本書は1885年に一度日本語で書かれたが,大阪事件に連座して稿を失い,改めて漢文で書かれて93年に刊行された。…
…日本で初めて社会党の名を冠した政党。1882年5月,樽井藤吉により長崎県島原に旗を揚げた。綱領に〈道徳を以て言行の規準〉とし,〈平等を主義〉とし,〈社会公衆の最大福利を目的〉としている。…
※「樽井藤吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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