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樽井藤吉 たるいとうきち

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

樽井藤吉
たるいとうきち

[生]嘉永2(1849).8.26. 紀州
[没]1922.10.25. 京都
政治思想家。明治1 (1868) 年に京都に出て,漢学を学んだ。 1882年長崎県島原の耕作農民を対象に平等主義を説いて東洋社会党を結党したが,1ヵ月後に政府により虚無党として解党を命じられた。しかし運動を続け,翌年投獄された。 85年朝鮮において金玉均の独立党政府樹立をはかった大井憲太郎らの大阪事件連座。 92年奈良県から立候補し当選,大井らと東洋自由党結成した。 93年に日韓関係の解決策として「大東合邦論」を発表した。

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百科事典マイペディアの解説

樽井藤吉【たるいとうきち】

社会運動家。奈良県生れ。1882年長崎県で社会の平等を目ざして東洋社会党を結成。1883年党則案を印刷,頒布し軽禁錮(きんこ)。1885年金玉均援助に奔走し,大阪事件で逮捕。
→関連項目東洋自由党

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

樽井藤吉 たるい-とうきち

1850-1922 明治-大正時代の社会運動家。
嘉永(かえい)3年4月14日生まれ。井上頼国(よりくに)の塾にまなぶ。明治15年東洋社会党を組織するが弾圧される。中国で朝鮮独立党の金玉均とまじわり,大井憲太郎の大阪事件に連座する。25年衆議院議員。大正11年10月25日死去。73歳。大和(奈良県)出身。一時森本姓を名のる。号は丹芳。著作に「大東合邦論」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

樽井藤吉

没年:大正11(1922)
生年:嘉永3(1850)
明治大正期の政治家。大和(奈良県)の材木商樽井要助の次男。号は丹芳。明治6(1873)年上京して井上頼圀塾で国学を学ぶ。『評論新聞』の発行に参加。その後佐賀民権派と交流し,『佐賀新聞』の主筆,戊寅義塾の講師などを務める。15年肥前島原(長崎県島原市)で「平等」,「社会公衆の最大福利」を唱えて東洋社会党を旗揚げするが,1カ月たらずで禁止処分,翌年1カ年の禁固処分となる。出獄後玄洋社グループと交流ができ,大阪事件(1885),福州事件(1919)に関係する。井上馨の条約改正当時,これを批判する秘密出版を行い保安条例により1年半の禁固処分を受ける。25年衆院議員当選。<著作>『大東合邦論』<参考文献>田中惣五郎『東洋社会党考』

(酒田正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

たるいとうきち【樽井藤吉】

1850‐1922(嘉永3‐大正11)
東洋社会党の創立者。奈良に材木商の子として生まれる。1868年(明治1)五ヵ条の誓文に感奮して上京,漢学を学ぶ。西南戦争では西郷隆盛に呼応した。82年5月肥前島原で東洋社会党を発会し,社会の平等と公衆の最大利福を綱領に唱えるが,6月内務卿より結党ならびに集会を禁止され,83年1月東洋社会党党則草案を頒布して,集会条例で軽禁錮1ヵ月に処せられた。出獄後は《佐賀日報》の編集に携わり,のち朝鮮独立党の金玉均と相知る。

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大辞林 第三版の解説

たるいとうきち【樽井藤吉】

1850~1922) 政治家。奈良県生まれ。自由民権運動に参加。1882年(明治15)東洋社会党を結成。のち、衆議院議員。「大東合邦論」を著し、大アジア主義を主張した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

樽井藤吉
たるいとうきち
(1850―1922)

急進的民権思想家、大アジア主義者。嘉永(かえい)3年10月12日大和(やまと)国(奈良県)に生まれる。上京して漢学を学ぶ。西南戦争に際しては西郷方で策動。1882年(明治15)長崎県島原で同志と東洋社会党を結成したが1か月で禁止され、翌年同党党則草案を配布して禁錮刑を受ける。84年清仏(しんふつ)戦争の際渡清、平岡浩太郎(こうたろう)、中江兆民(ちょうみん)らと上海(シャンハイ)に東洋学館を設立。また玄洋社員らと朝鮮独立党の金玉均(きんぎょくきん)を助けた。大阪事件に連座、その後も条約改正問題で投獄されるが、憲法発布の特赦で出獄、92年衆議院議員に当選。翌年『大東合邦論』を著し、日韓両国は合邦して大東国をつくり、清国と連合して西洋列強の侵略に抵抗すべきことを説いた。この構想は内田良平(りょうへい)らの天佑侠(てんゆうきょう)に影響を与え、のちに形を変えて日本の韓国併合を導いた。樽井自身も併合の提唱者と自負した。晩年は中国、朝鮮で鉱山の経営などを試みたが、いずれも失敗に終わった。[岡部牧夫]
『竹内好編『現代日本思想大系9 アジア主義』(1963・筑摩書房) ▽田中惣五郎著『東洋社会党考』(1970・新泉社)』

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世界大百科事典内の樽井藤吉の言及

【大アジア主義】より

…大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。また樽井藤吉は,白人の侵略に共同防衛するには,〈各邦の自主自治の政をして,均平に帰せしむ〉日韓の合邦が必要だとした。そして,樽井の創見を継承したのは内田良平である。…

【大東合邦論】より

樽井藤吉の著書。本書は1885年に一度日本語で書かれたが,大阪事件に連座して稿を失い,改めて漢文で書かれて93年に刊行された。…

【東洋社会党】より

…日本で初めて社会党の名を冠した政党。1882年5月,樽井藤吉により長崎県島原に旗を揚げた。綱領に〈道徳を以て言行の規準〉とし,〈平等を主義〉とし,〈社会公衆の最大福利を目的〉としている。…

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