1892年11月,大井憲太郎,小久保喜七,樽井藤吉らが結成した政党。議会開会以来,大井らは自由党に不満をもち急進自由主義を掲げる非政社団体東洋俱楽部をつくっていたが,星亨との軋轢(あつれき)を深め脱党,〈自由軍の別動隊〉として東洋自由党を結成した。その主旨は,アジア革新の指導者=日本という意識に支えられた,東洋経綸の国是樹立にあった。綱領に〈外交は強硬政略を執り国権の発揚を期する事〉〈緊急至要の対外政策を講じ専ら其実行を期すること〉として対外硬の政策を強調した。同時に〈貧民労働者の保護〉を掲げ,党内に普通選挙期成同盟会,日本労働協会,小作条例調査会を設けた点にその独自性がある。機関誌として週刊《新東洋》を発行して通信と伝道に努めた。やがて条約改正問題がおこると93年10月,安部井磐根(いわね),神鞭(こうむち)知常,佐々友房らと大日本協会を組織し,内地雑居反対,現行条約励行論を唱え,対外硬派の一翼として政府とあらそった。同年12月党は大日本協会に吸収される形で解党,大井らは大日本協会派として活動をつづけた。大阪事件に見られた,日本=アジアの指導者という優越感がここにも流れており,アジア民族の対等平等の連帯にもとづくアジア変革の道は示されていない。しかし当時生起しつつあった労働者,小作人,貧民問題へのいちはやい着目は鋭く,日清戦争後の労働運動,普選運動の先駆をなしている。
執筆者:広瀬 玲子
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1892年(明治25)11月6日大井憲太郎(けんたろう)を中心に結成された政党。自由党院外団の中心人物大井は、自由党が政府と妥協し、党組織が議員団専制体制へと変質していくのに反対して、91年5月党内に非政社団体「東洋倶楽部(くらぶ)」を設立した。しかし意を果たせず、翌92年6月28日脱党し、11月フランス流の急進自由主義を唱えて東洋自由党を結成した。中心には大井のほか新井章吾(あらいしょうご)、小久保喜七(こくぼきしち)、樽井藤吉(たるいとうきち)らがおり、第四・第五議会で四議席を占め、綱領に立憲代議制の確立、国権発揚のための対外硬、労働者貧民の保護を掲げ、党内に普通選挙期成同盟会、日本労働協会、小作条例調査会を設置し、また機関紙『新東洋』を発刊した。いずれも画期的な事業であったが、93年条約改正問題がおこると、国民協会、熊本国権党、福岡玄洋社などと大日本協会を設立して内地雑居に反対し、12月解党した。
[猪飼隆明]
『平野義太郎著『馬城大井憲太郎伝』(1938・大井馬城伝編纂部/復刻版・1968・風媒社)』▽『升味準之輔著『日本政党史論 第二巻』(1966・東京大学出版会)』
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…その後民権運動の中心にあったが,82年以降の弾圧期に朝鮮内政改革を企てたいわゆる大阪事件(1885)をおこし,重懲役9年に処せられた。89年憲法発布で大赦出獄,90年中江兆民らと立憲自由党を設立したが,自由党の議会政党化にあきたらず,92年脱党して東洋自由党を結成した。アジア変革の指導者として東洋経営の国是を定めようとする国権論を掲げるとともに,労働者,細民の運動を促進した。…
※「東洋自由党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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