向山古墳(読み)むかいやまこふん

日本歴史地名大系 「向山古墳」の解説

向山古墳
むかいやまこふん

[現在地名]嬉野町下之庄 上野、松阪市小野町 上ノ坂

嬉野町と松阪市を区切る、西から東に突出た細長い丘陵の頂部に立地。標高約五〇メートル、比高約四〇メートルの墳丘上に立つと、雲出くもず川下流域から櫛田くしだ川下流域に至る沖積地を一望でき、古墳築造には格好の地である。自然地形を巧みに利用した前方後方墳で、全長七一・四メートル。後方部は一辺四〇メートル、高さ三・四メートルで、東側に幅二六・七メートル、長さ三一・二メートル、高さ三メートルの前方部が付く。

向山古墳
むかいやまこふん

[現在地名]太子町春日

用明天皇陵に治定される。春日かすが集落南西端の台地上に位置する方墳で、墳丘の東西六五メートル・南北六〇メートル・高さ一〇メートル、周囲には幅一〇メートル余の周濠をめぐらす。春日の吉村久平家蔵文書の享保一〇年(一七二五)の記録に「南方垣ヨリ壱間程内ニ御石棺四石ト相見得候、石厚三尺長一間半之石有之候、南ノ方ニ山高サ三間」とあり、横穴式石室の可能性を示唆する。同時に石棺様の図を載せるが詳細は不明。用明天皇は「日本書紀」用明天皇二年四月条に「癸丑に、天皇、大殿に崩ず」、続けて同年七月二一日条に「磐余池上陵に葬る」、推古天皇元年九月条に「橘豊日天皇を河内磯長陵に改め葬る」とみえる。

向山古墳
むかいやまこふん

[現在地名]川之江市金生町下分

金生きんせい川に臨む向山丘陵の南斜面に、南に開口する二基の横穴式石室がある。その西の方を雌塚(一号)、東のを雄塚(二号)とよんでいる。

明治二六年(一八九三)開扉された第一号墳はほぼ完全な石室を残し、全長一一メートル、幅二・四メートル、玄室長さ四メートル、幅二・四メートル、高さ二・五メートル。奥壁は一枚石で側壁とともに巨岩を用いている。子持坏・子持壺・平瓶・金銅環・玉髄勾玉などの出土が伝えられる。

向山古墳
むかいやまこふん

[現在地名]坂出市川津町 西田

山の南西部丘陵の先端部、標高九四メートルの山丘上に所在。直径一〇メートルほどのなだらかな円丘状を呈し、その範囲のなかに四基の石棺が構築されている。中央部の一号墳は両側端には板石を立てているが、側壁は人頭大の石を三、四段に積んでいる。長さ一・八メートル、幅六三センチで、鉄剣一口一口が出土。三号棺と四号棺は組合せ箱式石棺で、二号棺は長さ一・八メートル、幅四五センチ、深さ三〇センチの土坑になっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「向山古墳」の解説

むかいやまこふん【向山古墳】


三重県松阪市小野町・嬉野上野町にある古墳。伊勢湾西岸のほぼ中央部、雲出(くもず)川の南岸に沿いながら東に張り出した標高約50mの台地先端部に位置する前方後方墳。主軸をほぼ東西に置き、前方部を東に向けている。全長約82mで、うち前方部は約35mである。前方くびれ部付近では2段築成が観察され、墳丘の所々に埴輪(はにわ)片と葺石(ふきいし)の一部と思われる自然礫(れき)が散乱している。1914年(大正3)に地主が発掘し、粘土槨(ねんどかく)中から、重圏文(じゅうけんもん)鏡や変形獣帯鏡など4面、石釧(いしくしろ)13、碧玉(へきぎょく)製車輪石4、筒形石製品2のほか鉄刀や鉄槍などが発見され、東京国立博物館に保管されている。この地方の古墳時代前期を代表するもので学術的価値が高いことから、1975年(昭和50)に国の史跡に指定された。近鉄大阪線ほか伊勢中川駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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