天明俳諧(読み)てんめいはいかい

改訂新版 世界大百科事典 「天明俳諧」の意味・わかりやすい解説

天明俳諧 (てんめいはいかい)

江戸時代の俳風。享保期(1716-36)の俳諧への反省から,元禄期(1688-1704)の俳諧(元禄俳諧)の純正な詩情を再生しようと俳壇が動き出し,明和安永・天明ごろ(1770年代前後)盛時に達したもので,〈中興俳諧〉ともいう。長期にわたって各地に指導者が現れ,一種の文学運動として俳壇を導いた。

 早くは長水らの《五色墨》(1731)が江戸座俳諧に背いて平淡を重んじたが,本格化したのは宝暦年間(1751-64)からで,江戸では蓼太(りようた)が江戸座を批判し,京では嘯山が《俳諧古選》で広く元禄諸家の風に学べと説いた。江戸座・貞門・談林派(都市系俳諧)の過度の技巧や遊戯化,美濃派伊勢派(地方系俳諧)の平板卑俗化への反発に出るが,決して統一された運動ではなく,各人共通の意識は〈芭蕉復興〉のみであった。芭蕉塚建立などの追遠行事や作品・伝記研究として芭蕉五十回忌(1743)ごろから具体的な形をとり,七十回忌(1763)には急速に顕著になり,京の蝶夢(ちようむ)の義仲寺護持や芭蕉作品の整備に結実して気運を高めた。芭蕉復興を唱えての行脚や出版が活発化するのも1760年(宝暦10)ごろからで,ことに伊勢の樗良(ちよら),加賀の麦水・二柳(じりゆう)(のち大坂)・既白・闌更(のち京),信濃の白雄(しらお)(のち江戸),播磨青蘿の積極的な活動は刺激を与えた。運動は安永年間(1772-81)に入ると頂点に達し,京の蕪村几董きとう),名古屋の暁台(きようたい)以下それぞれ佳品を生み,諸家の交流も花やかだったが,百回忌(1793)をもって一応終息する。蕉風創始者としての芭蕉の絶対的位置づけは,これを神格化する行き過ぎも生んだが,全俳壇の統一の要として働いて,貞門・談林派に至るまで蕉風化の勢いに巻き込み,それまで混然としていた雑俳が切り離され,俳諧はもっぱら文芸性を追求するようになる。連句尊重の傾向もその現れである。

 本来中興諸家の俳風は多彩で,蕉風(蕉風俳諧)の目標も《虚栗(みなしぐり)》《冬の日》をとる者,晩年の《炭俵》調を選ぶ者とさまざまであったが,どの作家も純粋な感動を第一義とする点で一致し,運動の主力が地方系の伊勢派末流にあったことも起因して,平明で簡素な表現,写実的な形象性が重んじられ,繊細な感覚,清新な抒情,自然美の再発見も求められた。なかでも江戸座に近い蕪村は其角らの風も学び,知巧的で自在な表現を加味して高雅で浪漫的な美を追求し,同じ京の太祇も都市風の人事句に洗練を見せ,改革が地方系のみでなく都市系からもなされたことを示した。また運動の背景には儒学の徂徠派や国学における古学尊重の風潮があり,これが招来した漢詩文や文人趣味の流行も影響して,俳諧に古典的色彩や雅文学志向をもたらした。主要作家は多く地方から出たが,支持者も地方に多く,新風の社会的母胎として,田沼時代の重商政策にそった地方町人の成長が考えられる。〈人恋し灯ともしころをさくらちる〉(白雄《しら雄句集》),〈ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ〉(蕪村《五車反古》)。
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百科事典マイペディア 「天明俳諧」の意味・わかりやすい解説

天明俳諧【てんめいはいかい】

芭蕉の死後,江戸座らの過度に遊戯化した俳風,美濃派伊勢派の卑俗,平板に流れる俳風に対する批判から,〈芭蕉に帰れ〉の精神で明和・安永期に起こった蕉風復興運動の結果,天明期(1780年代)前後に完成をみた俳諧。代表俳人は大島蓼太(りょうた)〔1718-1787〕,加舎白雄,三浦樗良(ちょら)〔1729-1780〕,加藤暁台〔1732-1792〕,与謝蕪村など。
→関連項目蕉風

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