有間皇子(読み)アリマノミコ

デジタル大辞泉 「有間皇子」の意味・読み・例文・類語

ありま‐の‐みこ【有間皇子】

[640~658]孝徳天皇の皇子。謀反をはかったとされて処刑された。このときの哀歌2首が万葉集にある。

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精選版 日本国語大辞典 「有間皇子」の意味・読み・例文・類語

ありま‐の‐みこ【有間皇子】

孝徳天皇の皇子。大化改新で父が即位したため、皇位継承可能性が生まれたが、中大兄皇子に警戒された。斉明天皇の行幸中、蘇我赤兄に謀反をそそのかされたが断念。しかし、謀反をはかったとして、捕えられて紀伊国藤白坂絞刑に処された。「万葉集」に残る哀歌二首は、護送される途中の作。舒明一二~斉明四年(六四〇‐六五八

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改訂新版 世界大百科事典 「有間皇子」の意味・わかりやすい解説

有間皇子 (ありまのみこ)
生没年:640-658(舒明12-斉明4)

孝徳天皇の皇子。658年,謀反の罪により年19歳で処刑され,その事件にさいしてよんだ歌2首が《万葉集》に残されている。母は左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘小足媛(おたらしひめ)で,有間の名は父の皇子時代,有間の湯(有馬温泉)にいたおりに生まれたことによるらしい。父帝孝徳は大化改新時に即位したが,政治的実権を握るのは皇太子の中大兄(なかおおえ)皇子(のちの天智天皇)であり,天皇との間に軋轢(あつれき)も生じていた。653年難波京から大和への遷都が天皇の意に反し中大兄によって行われたのはその一例であり,ために孝徳は翌年旧都難波において横死ともいえる死をとげた。中大兄の母斉明天皇の代となるに及び,有間は狂気を装う言動を示したが,これは先帝の遺児として政争から逃れようとしたためと見られる。657年秋紀伊の牟婁(むろ)の湯(現,和歌山県白浜町湯崎温泉)に療病し帰京して天皇にその地の景観を推賞するということがあり,翌年10月天皇と皇太子は牟婁の湯へ赴いた。その留守中におきたのがいわゆる有間皇子事件である。11月3日留守官蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間に斉明帝の失政3ヵ条を語ったのに対し,有間は〈吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり〉と応じ,同5日両者で挙兵の談合があったが,その夜赤兄は有間を謀反人として逮捕し,身柄を牟婁の湯に護送した。中大兄の訊問を受けた有間は〈天と赤兄と知る,吾もはら知らず〉とのみ答え,同11日,紀伊の藤白坂で絞首刑に処された。この時に皇子の側近2人が斬られ,なお2人が流刑となったが,謀反をそそのかした赤兄は処分を受けず,その後中大兄にとりたてられて近江朝では左大臣の地位に達している。事件は中大兄が蘇我赤兄を用いて皇子を挑発したものとすべきであろう。有間の歌〈磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらばまたかへりみむ〉は護送の途次,紀伊岩代でよまれたもの。これには山上憶良ら数人が後に追和の歌をよんでおり,事件が悲史として世に伝えられていたことを示している。
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朝日日本歴史人物事典 「有間皇子」の解説

有間皇子

没年:斉明4.11.11(658.12.11)
生年:舒明12(640)
7世紀中ごろの皇族。孝徳天皇と妃の小足媛(阿倍倉梯麻呂の娘)の皇子。名は父が有間温湯(神戸市)で療養していたときに生まれたからという。大化1(645)年孝徳天皇が即位し,そのただひとりの皇子として皇位継承の可能性が生まれた。しかし皇太子である中大兄皇子(のちの天智天皇)が政治の実権を握り,同5年外祖父の左大臣倉梯麻呂が死去し,父も中大兄皇子と不和となって白雉5(654)年死去すると,有間皇子の立場は危ういものとなった。危険を察知し,斉明3(657)年9月,狂気を装い療養と称して牟婁温湯(和歌山県白浜町湯崎温泉)へ行き,帰京後この地の風光をほめて斉明天皇に推奨した。同4年10月天皇一行は同所に行幸,その留守中に有間皇子の謀反事件が起こった。『日本書紀』本文によると,11月3日京の留守官の蘇我赤兄が皇子に,天皇の失政3カ条をあげて謀反を勧めた。皇子は挙兵に応じたが,5日謀議の最中に脇息が壊れ,それを不吉として,実行を延期した。その夜赤兄は皇子の市経の家を囲む一方,天皇に皇子の謀反を報告した。9日皇子と4人の側近は牟婁温湯に送られ,中大兄皇子が謀反の理由を問うと,「天と赤兄が知っているだろう。私は全く知らない」と答えた。11日皇子は藤白坂(海南市藤白)で絞首刑に処され,ふたりの側近は斬刑に処せられた。赤兄は処罰されないで,天智天皇時代(662~671)の左大臣となった。『日本書紀』の注に引用されているある書物は,皇子が謀反計画を立てたとする。しかし,『日本書紀』はこの事件を赤兄の謀略として描いている。『万葉集』は皇子が牟婁に護送される途中磐代(和歌山県南部町岩代)で詠んだという「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」ほか1首を載せる。奈良時代この地は歌の名所となり,結び松に寄せて長意吉麻呂,山上憶良らが歌を詠んでいる(『万葉集』巻2)。

(今泉隆雄)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「有間皇子」の解説

有間皇子
ありまのみこ

640~658.11.11

孝徳天皇の皇子。母は阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)の女小足媛(おたらしひめ)。父の死後657年(斉明3)狂人を装い,牟婁温泉(むろのゆ)(現,和歌山県白浜町)に湯治に行く。これは,皇子が有力な皇位継承候補者で,反体制派の豪族層のよりどころとして中大兄(なかのおおえ)皇子らから危険視されているのを避けたものと考えられる。翌年,中大兄皇子の意をうけた蘇我赤兄(あかえ)の訪問をうけ,現体制への批判の言葉を聞かされて反乱を決意。そのために捕らえられ,与党とともに天皇らの滞在する紀温泉(きのゆ)(牟婁温泉)に送られ,中大兄皇子の訊問をうけたのち藤白坂(ふじしろさか)(現,和歌山県海南市藤白)で絞殺された。紀伊護送中に皇子の詠んだ歌,および皇子の死をいたんだ後人の歌を「万葉集」に収める。

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百科事典マイペディア 「有間皇子」の意味・わかりやすい解説

有間皇子【ありまのおうじ】

孝徳天皇の皇子。斉明天皇の失政が世人の反感を買っていたので,658年蘇我赤兄(そがのあかえ)とともに天皇行幸(ぎょうこう)の留守に反乱を計画したが,赤兄のために逆に捕らえられて紀伊国の藤白坂(ふじしろのさか)で絞殺された。護送途上の歌が2首《万葉集》にある。
→関連項目蘇我赤兄万葉集

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「有間皇子」の解説

有間皇子 ありまのおうじ

640-658 飛鳥(あすか)時代,孝徳天皇の皇子。
舒明(じょめい)天皇12年生まれ。母は阿倍小足媛(あべの-おたらしひめ)。斉明天皇4年蘇我赤兄(そがの-あかえ)の勧めで謀反を決意。のち中止するが,赤兄の裏切りで捕らえられる。皇太子中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)の尋問をうけたのち,同年11月11日紀伊(きい)藤白坂(ふじしろさか)で処刑された。19歳。この事件は中大兄皇子の謀略とする説がある。護送されるときの歌2首が「万葉集」巻2におさめられている。
【格言など】天(あめ)と赤兄(あかえ)と知らん。吾(おのれ)全(もは)ら解(し)らず(中大兄皇子の尋問に答えて)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「有間皇子」の意味・わかりやすい解説

有間皇子
ありまのおうじ

[生]舒明12(640)
[没]斉明4(658).10.15. 紀伊
孝徳天皇の皇子。母は左大臣阿倍内麻呂 (倉梯麻呂) の娘小足媛 (おたらしひめ) 。父孝徳天皇のあとをうけた斉明天皇は,宮殿の造営など盛んに土木を興して時人の不満を買った。皇子は狂気を装って無関係の立場にいようとしたが,斉明4 (658) 年蘇我赤兄 (あかえ) にはかられて謀反を企てて捕えられ紀伊の藤白坂で殺された。護送されるときの哀感に満ちた歌2首が『万葉集』に収められている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「有間皇子」の解説

有間皇子
ありまのおうじ

640〜658
孝徳天皇の皇子
母は左大臣阿倍内麻呂の娘。斉明天皇・中大兄 (なかのおおえ) 皇子が紀伊行幸中,蘇我赤兄 (そがのあかえ) (馬子の孫)のすすめで謀反を企てたが,内通されて紀伊国で殺された。人望があり,中大兄皇子に警戒されていた。

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