改訂新版 世界大百科事典 「蘇我赤兄」の意味・わかりやすい解説
蘇我赤兄 (そがのあかえ)
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生没年不詳。飛鳥(あすか)時代の高官。蘇我臣倉麻呂(おみくらまろ)(雄当(おまさ)ともいう。馬子の子)の子。658年(斉明天皇4)10月、斉明(さいめい)天皇が紀伊温湯(いでゆ)に行幸したときの留守官となる。孝徳(こうとく)天皇の遺子有間(ありま)皇子に、天皇の三失政をあげて謀反を勧めて挑発し、有間皇子と従者を捕らえて紀伊に送って刑死させた。以後、政界で昇進し、669年(天智天皇8)に筑紫率(つくしのかみ)とされたが、671年に大友皇子が太政(だいじょう)大臣になった際に左大臣に任じられ、蔵大臣とも号した。この間、娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)を天智(てんじ)天皇の妃に、大蕤娘(おおぬのいらつめ)を大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)の夫人に入れた。しかし、672年(天武天皇1)7月、壬申(じんしん)の乱で近江(おうみ)朝廷側が敗れると、その高官の1人として流罪にされた。
[門脇禎二]
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生没年不詳。7世紀後半の官人。馬子(うまこ)の孫。倉麻呂(雄当)の子。石川麻呂の弟。658年(斉明4)紀温湯(きのゆ)行幸の留守官であったとき有間皇子を謀反の罪におとしいれ,皇子を紀温湯に護送した。668年(天智7)女の常陸娘(ひたちのいらつめ)を天智天皇の妃とし,669年に筑紫率(つくしのかみ),671年には左大臣に任じられた。壬申の乱に際して瀬田に吉野軍を防いだが敗れ,捕らえられて配流。大海人(おおあま)皇子にも女の大蕤娘(おおぬのいらつめ)を夫人に入れている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…その留守中におきたのがいわゆる有間皇子事件である。11月3日留守官蘇我赤兄(そがのあかえ)が有間に斉明帝の失政3ヵ条を語ったのに対し,有間は〈吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり〉と応じ,同5日両者で挙兵の談合があったが,その夜赤兄は有間を謀反人として逮捕し,身柄を牟婁の湯に護送した。中大兄の訊問を受けた有間は〈天と赤兄と知る,吾もはら知らず〉とのみ答え,同11日,紀伊の藤白坂で絞首刑に処された。…
※「蘇我赤兄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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