末村(読み)すえむら

日本歴史地名大系 「末村」の解説

末村
すえむら

[現在地名]福井市末町

丹生山地の北東部に位置し、未更毛みさらげ川が当村山中より発し東流する。北東は更毛さらげ村と接し、南は清水畑しみずばた村の枝村平尾ひらお(現丹生郡清水町)に至る。天正一一年(一五八三)の羽柴秀吉禁制状(賀茂神社文書)に「すへ村」とみえる。正保郷帳によると田方四六五石余・畠方二七五石余。福井藩領であったが正保二年(一六四五)より享保六年(一七二一)までは松岡藩領。

安政六年(一八五九)の高家数男女人馬五年御免附御改指出帳(橘家文書)によると、家数八八(うち高持三五・雑家二二・借家二一)、人数三八〇。年次は不詳であるが、末村村役人の願書(同文書)

<資料は省略されています>

とあって、当村の水田上一光かみいかり村の見満堂みまんどう(面満戸・面万戸とも記される)水源としていた。


末村
すえむら

[現在地名]金沢市末町・永安町えいあんちよう

犀川中流東岸、蓮華れんげ村の対岸に位置し、北西大桑おおくわ村。村の東部を寺津てらづ用水、西部を辰巳たつみ用水が流れる。地名の由来は大桑村の犀川貝穀かいがら淵辺りの畑地にあった大桑木が倒れた時、当所がこの木の末になったからとも、同じく大桑村地内に生えていた大桑木の末枝が当地にかかっていたからとも伝える(加賀志徴)。中世には須江・次江などとも記された。「天文日記」天文五年(一五三六)六月二六日条によると「次江」光専寺が「牢人之義」(下間頼秀・同頼盛のことか)について本願寺証如に書状を送っている。現在町三丁目にある真宗大谷派光専こうせん寺は文明年中(一四六九―八七)に慶縁が建立、天正年中(一五七三―九二)祐照の代に金沢へ移転するまで当地に所在したという(貞享二年寺社由緒書上)


末村
すえむら

[現在地名]宇佐市末

元重もとしげ村の南、伊呂波いろは横山よこやま谷の中流東岸にある。村の東部は山地で西の伊呂波川沿いに水田地帯が形成される。同川対岸西方は今成いまなり村、南は木内きのうち村。地名は須恵器に由来するものであろうか。文明元年(一四六九)一二月一三日の元重清親譲状(元重実文書)で子の清朝に譲った横山浦光納・本重(元重)両名のうちに「壱反御代官給サタマサ」がみえるが、このサタマサは地内貞政さだまさとみられる。近世の領主の変遷は時枝ときえだ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高七〇五石余、人数八二、百姓一三(うち小庄屋二)・名子七、牛一〇・馬一。時枝領となった元禄一二年(一六九九)の時枝領郷村高帳(小笠原家文書)によると拝領高四九四石余・改出高二〇四石余で、合せて高六九八石余。


末村
すえむら

[現在地名]志度町末

東は五瀬ごぜ山から熊高くまたか山に連なる山稜で鴨部中筋かべなかすじ村と接し、西方は石鎚いしづち山で、東・西を山に挟まれたわずかな平野に集落がある。五瀬山から南西に突き出た尾根を境に、東末と西末に分れる。北の丘陵を越えると志度湾の展望がひらける。志度村から当村を通り乙井おとい(現長尾町)を経て長尾ながお街道に合する里道がある。地内に数基の古代窯跡がある。末の地名は陶器製造にかかわるものと考えられる。「続日本紀」延暦一〇年(七九一)一二月一〇日条に、寒川さんがわ岡田おかだ村の佐婆部首犬養らに居処の地名をとって岡田臣の姓を賜ったとみえる。


末村
すえむら

[現在地名]夜久野町字末

北は山を隔てて日置へき村に対し、南は但馬国(現兵庫県)と境する谷あいの村。

古代陶部がこの地で須恵器を製造していたとの伝承をもち、氏神須恵すえ神社は猿田彦命を祀る。村のなだらかな丘陵に谷が複雑に入り込んでいる辺りから、昭和四二年(一九六七)多量の須恵器片が発見され、末一号―一七号窯、もと一号―五号窯、広畑ひろばたけ一号・二号窯などの須恵器登窯跡が明らかになった。窯跡群は西北の高内たかうちにもまたがり、一・八平方キロの範囲に約四〇基余りが確認されている。末の土質は赤土で須恵器の原料であるが、地質的には夜久野迸入岩類とよばれるもので、分布はまき川以南の末・小倉おぐら千原ちはら一帯である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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