光専寺(読み)こうせんじ

日本歴史地名大系 「光専寺」の解説

光専寺
こうせんじ

[現在地名]高松町高松

旧高松宿の中心部に位置。木越山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。貞享二年寺社由緒書上によれば文亀二年(一五〇二)誓乗が能登羽咋はくい押水おしみず小川おがわ(現押水町)に創建し、文禄年中(一五九二―九六)加賀国河北郡木越きごし(現金沢市)に移転、数年後羽咋郡米出こめだし(現押水町)へ戻ったとされるが、河北郡法光寺ほうこうじ(現金沢市)にあった天台宗法光寺が前身との寺伝もある(押水町史)。寺院明細帳では文安二年(一四四五)天台宗西照坊乗本が蓮如帰依して米出村に創立し、文明三年(一四七一)小川村に移転、天正六年(一五七八)木越村に移り、文禄元年米出村に戻ったと伝えている。しかし「天文日記」天文八年(一五三九)九月一五日条に「就当番事、本覚寺代押水おしみつの光専寺能州羽喰郡人也、久牢人也、加州木越ニ住居也、如毎月樽出之」とみえ、同一八年一一月四日条にも木越光専寺が上番していることが知られるので、天文八年以前に木越に亡命していたことは確実である。


光専寺
こうせんじ

[現在地名]山鹿市山鹿 下町

上市城うえちじようの丘陵南裾部に位置する。清滝山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺蔵の由来記によると開基は行空、天台宗寺院として南島みなみじまに創建し、天正六年(一五七八)真宗に帰依、慶長年間(一五九六―一六一五)の三代行円の時に当地に移転したという。「鹿郡旧語伝記」は天正六年の移転とするが、寺蔵の慶長一五年の蓮如画像准如賛には「南嶋村光専寺常住物也」と記されるので、移転は同年以後と推定される。


光専寺
こうせんじ

[現在地名]清洲町土田

北浦きたうらにある。堤田山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もとは天台宗で専修坊と号し海東かいとう萱津かやづ(現海部郡甚目寺町)にあった。草創年代不詳。永正七年(一五一〇)に正玄が一向宗に改め、天正年中(一五七三―九二)に現在地より一町ほど南に移転したが、慶長八年(一六〇三)遠山伝十という者の屋敷跡へ替地し、今の堂宇を再建した。


光専寺
こうせんじ

[現在地名]千種区今池二丁目

宝林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。戦災で本堂などを焼失したため、古い記録などは残っていないが、「尾張志」によれば、文禄二年(一五九三)加藤清正の弟祐正により創建された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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