日本大百科全書(ニッポニカ) 「本土決戦」の意味・わかりやすい解説
本土決戦
ほんどけっせん
太平洋戦争の末期、敗色濃厚となった日本の政府・軍部が、アメリカ軍の日本本土上陸を必至とみて想定した作戦。残された兵力や装備を温存・集中して最後の決戦を本土において試み、戦局転換を図るというものであったが、内容は非現実的でしかも無謀なものであった。
1944年(昭和19)7月のサイパン島陥落による戦局の大転換に続き、10月フィリピンを失った日本は南方占領地との連絡を絶たれ、資源の輸送も不可能となった。かくて最悪事態への対処を迫られた政府・軍部は45年初頭から本土決戦の準備を進め、1月20日には陸海軍共通の作戦計画として「帝国陸海軍作戦計画大綱」が決定された。当時、陸海軍の主力は大陸と南方におり、本土における兵力は皆無に近い状態であったため、240万人の陸海軍防衛部隊の急速な編成が必要とされ、男子の根こそぎ動員が行われ、さらに全国民を軍隊的な編成のもとに置く国民義勇隊も組織された。また、1月25日決定の「決戦非常措置要綱」に基づいて、飛行機の生産など戦力の増強を図ろうとした。
行政面でも準備が進められ、総動員体制の強化のため、地方ごとの行政と軍事を一体化し、地方の独立性を強化し、本土が分断された場合でも戦争継続を可能にしようとした。6月10日には8個の地方総監府が設置され、軍と密着しつつ地方行政の一元的な管理が目ざされた。
他方、海岸陣地をはじめとする軍用施設の大規模な新設・拡張のため、3月には軍事特別措置法がつくられ、政府は一般国民の土地・建物の管理・使用・収用ができるようになり、さらに6月には他の法令に束縛されずに命令や処分をなしうる戦時緊急措置法も成立した。こうして国民の無権利状態を極限化しつつ、本土決戦態勢を推進するが、原爆投下とソ連参戦を経ての日本の降伏により、本土決戦は回避された。しかし、アメリカ軍はオリンピック作戦、コロネット作戦と名づけたヨーロッパ戦線からの転用を含めた大兵力を動員する本土上陸作戦を計画しており、これが実行されていれば、本土決戦準備の犠牲となったともいえる沖縄戦と同様の悲劇を全国民が体験していたことになる。
[青木哲夫]