本山村
もとやまむら
[現在地名]本山町本山
東流する吉野川の南岸、河岸段丘上にあり、大石村の北西にあたる。本山郷の中心地であった。南部には田井山(三一七・三メートル)の山麓がせまる。古くは土居村とも称した。村内には弥生時代中期末から鎌倉時代にかけての複合集落遺跡の永田遺跡がある。
戦国期には本山氏の本拠地で、本山城もあった。本山氏は山深い当地から土佐中央への進出を計画、大永年間(一五二一―二八)には土佐郡朝倉(現高知市)に進出、その後、東は同郡布師田(現同市)、西は仁淀川までの土佐郡・吾川郡を支配下とし、朝倉城を居城とした(元親記)。本山茂宗の頃である。その後長宗我部氏の攻撃を受け、本山郷内瓜生野の城で長宗我部氏に降伏した。長宗我部氏によって天正一七年(一五八九)検地が行われ、本山郷地検帳の当村域と思われる地域には十弐所村・永古味村・永田村・十王堂村・新堂村・ニセイタノ村・イセイ谷ノ村・土居村などの小村がみられ、多くの長宗我部家臣たちの給地・居住地となっている。
本山村
もとやまむら
[現在地名]福江市吉田町・堤町・高田町・野々切町
福江村の南西に位置する。西に翁頭山、南に鬼岳があり、福江川が北東流する。吉田の明星院は大同元年(八〇六)空海により創立されたと伝える。西部の城平は永正四年(一五〇七)頃に築かれた城の跡という。古くは野中・蓮寺・高田の集落があり、三ヵ村とも称され、また総称して野中村とよんだ。江戸時代前期に本山村と改称しているが、野中村の村名はのちに編入される吉田村とともに当村内として史料にみえる。福江藩領本山掛に属する。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳によれば本山村内に一里山が置かれていた。万治二年(一六五九)の惣高積之帳に本山領として野中村・堤村・野々切村・大浜村の四ヵ村が記され、正保国絵図の高二千五二二石余、今高三千七七九石余、うち一千四五二石余が大浜主水の知行であった。
本山村
もとやまむら
[現在地名]府中市本山町
町村の北に位置し、東は品治郡常村(現芦品郡新市町)。芦田郡に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば三三五石余、元禄一三年(一七〇〇)の本山村御検地水帳(広島大学蔵)では反別四四町余・高三五九石余。福山藩水野氏断絶後幕府領、元禄一三年以降福山藩領。
「備後郡村誌」に「山八合田畑弐合村ニ御座候、但旱損所」と記され、草山九ヵ所、野山三ヵ所(村中牛馬飼場)、池一四ヵ所があり、こえ草札一〇枚を記す。これについては「無運上ニ而金丸村御林火池山ニ而日数四日苅来り申候」とある。また同書による宝永八年(一七一一)の家数七三・人数五二六、馬一二・牛五二。
本山村
もとやまむら
[現在地名]熊本市本山町・迎町一丁目
白川左岸に位置し、東は迎町・本庄村、南は世安村・十禅寺村である。現高を記す慶長八年(一六〇三)の検地帳では田二一町九反二畝余(うち上田一七町七反二畝余)・畑一七町五反四畝余(うち上畑一三町八反四畝余)、分米四二三石五斗余で、家数五一、男五〇(うち年寄二・倅一一)・女四四、馬七・牛一九、柿木九・桑木六がある。郷高を記す慶長九年九月の検地帳では田はなく、畠屋敷一六町一反六畝余、分米一二九石六斗余である。
本山村
もとやまむら
[現在地名]立花町白木
白木村の南にあり、白木川の分流本山川流域にある。東に犬嶽・城平山、南に桐葉山がある(柳川藩領図)。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に本山村とみえ、高八五石余。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高一〇五石余、小物成は山手米四石五斗・茶年貢銭二貫六〇〇文・柿年貢銭一六〇文・楮木七三束。
本山村
もとやまむら
[現在地名]佐世保市下本山町・上本山町
中里村の北西に位置し、相浦川が流れる。地名は、中世後期に相神浦を拠点とした松浦氏宗家の菩提寺である新豊寺があったことに由来するという。現下本山町に三丸館跡があり、永禄六年(一五六三)からの飯盛城攻防戦の際に、平戸松浦氏の軍勢と松浦惣領家の軍勢が激突したところで、当時惣領家の居城であった(深江記)。城域は東西約八〇メートル・南北一〇〇メートルと想定され、空堀・土塁が築かれていた。江戸時代は平戸藩領で、八之窪村とともに中里村と総称される場合が多い。
本山村
もとやまむら
[現在地名]厳木町大字本山
厳木川の左岸に沿い、現相知町に接する。正保絵図に村名がみえる。秀島鼓渓覚書に「本山渠、中老、本山を知行す。前、賢二君に仕へる。後寺沢氏召抱へんとするも固辞して受けず、大川野長昌寺に入り修験の法を修め、長く鶴田一門の菩提を弔ふ」と記す。
字椎立木場には石炭があり、藩政末期御領山と称し、日田代官所に冥加金を納めて採掘を許されていた。慶応年間(一八六五―六八)、薩摩藩は池上次郎を派遣して、舟木谷・鹿子岩で採炭をした。
本山村
もとやまむら
[現在地名]日南町菅沢
日野川左岸、南東流する支流印賀川流域に位置し、村内北部を法勝寺往来が通る。南西は同往来を経て久谷村(現日野町)、南は印賀川を下り井原村(現同上)に至る。拝領高は一八石余、本免は四ツ四分。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高二五石余、家数一二・人数五六、馬一・牛七、鍛冶屋一に運上銀六〇匁が課されていた。天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)による高三五石余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四七石余、竈数九。「伯耆志」では林六町九反余、家数九・人数五一、鑪山としてシジラ山があり、産物は砂鉄・岩茸。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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