札幌市街(読み)さつぽろしがい

日本歴史地名大系 「札幌市街」の解説

札幌市街
さつぽろしがい

北海道開拓の拠点として明治初期に札幌扇状地上に建設された町。札幌本府・札幌町などともいい、単に札幌ともよぶ(狭義の札幌本府は開拓使札幌本庁構内および官邸をはじめとする官設諸施設群をいう)近世すでに近藤重蔵が東蝦夷地と西蝦夷地を結ぶイシカリ地方(石狩川流域)を蝦夷地経営の拠点とすることを提唱していた(近藤重蔵蝦夷地関係史料)松浦武四郎はさらにイシカリのなかでもサッポロが建府の最適地であると主張している(板本「西蝦夷日誌」など)。明治二年(一八六九)一〇月開拓判官島義勇は小樽郡銭函ぜにばこ(現小樽市)に赴き、本府建設のため開拓使仮役所を設置(北海道史)。島は部下を派遣して札幌近辺の地形視察(志村鉄一が案内したといわれる)、翌一一月には本府建設に着手した。本府建設地として札幌が選ばれたのは武四郎の建言によると推定される。現在の創成そうせい川を中心に本陣・米倉・倉庫・病院などが建設されたが、島の計画では官宅街の北端に方三〇〇間の本府を置き、幅四二間の道路を隔てて、同府中央から南に下る幅一二間の道の両側官邸群を、この官邸群と幅四二間の道路を隔てた南側に町屋地区を配置するものであった。町屋地区は本町とよばれ、幅一二間の東西路(銭函道)の両側に商家などを配置するものであった。島は銭函道が大友おおとも(のちの創成川)を渡る橋(のちの創成橋)を町割の基点としたといわれる。しかし明治三年二月に島に届いた帰京命令により、島の構想による札幌での本府建設はいったん中断した(「新札幌市史」など)

札幌本府建設が本格的に再開されるのは明治四年からで、再開後の本府建設は同年二月に札幌に着任した開拓判官岩村通俊の主導で進められた。岩村は島義勇の構想を踏襲し、東西に走る大通り(岩村の構想では幅五〇間、現在の大通)を境に北に官邸街、南に町屋を配したが、町の区割は幅一一―一五間の本通りで区切られる六〇間四方の街区を一区画とする、碁盤目状の町割が採用された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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