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李光洙 りこうしゅ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

李光洙
りこうしゅ

「イ・グァンス (李光洙)」のページをご覧ください。

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百科事典マイペディアの解説

李光洙【りこうしゅ】

朝鮮の作家,言論人。号は春園。幼くして渡日,1910年明治学院普通部卒業,在学中日本語で小説《愛か》を発表。卒業後五山学校教師,シベリア放浪を経て再度渡日,早稲田大学在学中発表の《無情》(1917年)は朝鮮近代文学の本格的はじまりとなる。
→関連項目金東仁崔南善親日文学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

李光洙 り-こうしゅ

イ-グワンス

李光洙 イ-グワンス

1892-1950 朝鮮の小説家。
高宗29年2月1日生まれ。早大留学中に朝鮮初の近代小説とされる「無情」を発表。大正8年「二・八独立宣言」を起草し,大学を中退して上海に亡命。帰国後「民族改造論」をあらわし論議をひきおこした。以後は「土」ほかの長編を執筆。朝鮮戦争中に北朝鮮に連行され病死したという。享年59歳。平安道出身。号は春園。

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朝日日本歴史人物事典の解説

李光洙

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:高宗29.2.1(1892.2.28)
朝鮮の文学者,思想家。日本語読みは「り・こうしゅ」。号は春園。大正4(1915)年2度目の渡日で早稲田大学に入るが,在学中の同8年に2・8独立協会宣言書を起草し,上海に亡命し大韓民国臨時政府に参加する。帰国後に『東亜日報』などの記者のかたわら作家活動に入る。同6年に朝鮮最初の近代小説といわれる『無情』などを発表し,新文学の代表的作家となる。同11年に「民族改造論」を発表するなど次第に日本に接近・協力し,やがて大東亜文学者会議の朝鮮代表となった。朝鮮戦争時に北朝鮮に連行された。朝鮮近代文学の祖といわれるが,振幅が激しかった。<著作>『李光洙全集』<参考文献>金東旭『朝鮮文学史』

(森山茂徳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

りこうしゅ【李光洙 (R)I Kwang‐su】

1892‐?
朝鮮の作家,思想家。号は春園。平安北道定州の生れ。朝鮮近代文学の祖といわれる。1907年日本の明治学院中等部3年に編入,卒業後帰国して民族系の五山学校で教鞭をとり,15年ふたたび渡日,早稲田大学高等予科を経て早稲田大学哲学科に入学,卒業までに1年を残して19年二・八独立宣言書を起草し上海に亡命,安昌浩の影響のもとに大韓民国臨時政府(上海)に身を投じ《独立新聞》を主宰した。帰国後の22年に《民族改造論》を発表し物議をかもした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

李光洙
りこうしゅ / イグァンス
(1892―?)

朝鮮の作家、思想家。号は春園。韓国(大韓民国)では一般に近代文学の祖とされる。平安北道の生まれ。1907年(明治40)渡日し、明治学院中等部に学び、卒業後いったん帰国して五山学校で教鞭(きょうべん)をとる。1915年(大正4)再度渡日して早稲田(わせだ)大学に学び、卒業を1年前にした1919年、2.8独立宣言書を起草して上海(シャンハイ)に亡命し、大韓民国上海(シャンハイ)臨時政府に身を投じた。帰国後1922年に発表した『民族改造論』は彼にとって一つの転機となった論文で、個人的徳目や誠実さが民族の力を涵養(かんよう)するとし、民族運動と反日運動とを分離、合法的民族改良運動を提唱した。その後こうした改良運動にも挫折(ざせつ)し、1937年の修養同友会事件で裁判に付せられてからは(結局は無罪)、青年時代に影響を受けたキリスト教から離れ、仏教に帰依(きえ)する。第二次世界大戦下「内鮮一体」が強要されると、彼は朝鮮最大の親日文学者になってしまう。対日協力することによって日本と対等の発言権を得んとする彼なりの計算があったとはいえ、解放後、反民族行為処罰法により裁判にかけられたのもやむをえない。朝鮮戦争のなかで行方不明、北に連れさられたとも伝えられる。初期の李光洙は、崔南善(さいなんぜん)と並んで西欧近代思想を朝鮮に紹介した百科全書家であると同時に、言文一致の新文学運動を切り開いた先駆者でもあった。多数の長短編を書いたが、多くは『土』(1932)のように民族主義的立場にたった啓蒙(けいもう)的作品か、『愛』(1939)、『友情』(1935)のように男女の愛情をテーマにした作品であり、現在でも韓国で青年層に愛読されている。[大村益夫]
『金逸善訳『愛』(1941・モダン日本社)』

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世界大百科事典内の李光洙の言及

【興士団】より

…興士団は在米朝鮮人社会の中で一つの政治勢力ともなり,李承晩系の同志会としばしば対立した。20年代に朝鮮内にも姉妹団体ともいうべき同友会が結成されたが,37年安昌浩,李光洙ら会員150名が一斉検挙され解体した。解放後興士団は本部をソウルに移し,米軍政下の過渡政府では趙炳玉ら数人がその閣僚として名を連ねた。…

【朝鮮文学】より

…新小説とは,自主独立・近代的教育の必要性を説いた李人稙の《血の涙》(1906),因習打破・婦権拡張を説いた李海朝の《自由鐘》(1910)などをはじめ,社会的問題をテーマにして1916年ころまで書かれた一群の小説をさし,思想面でも文体面でも未熟ではあったが,4・4調や4・3調等で新しい社会事象をうたった唱歌,旧来の定形詩の枠を打ち破った新体詩と並んで,朝鮮に近代文学の萌芽をもたらしたものといえる。次に登場するのが李光洙崔南善(さいなんぜん)である。彼らは《少年》《青春》誌などを通じ言文一致の文体によって民族意識と啓蒙意識に支えられつつ新文学の道を切り開いていった。…

【民族改造論】より

李光洙が三・一独立運動挫折後の1922年5月,朝鮮語の総合雑誌《開闢(かいびやく)》に発表した論説。彼は,民族独立の前提としての人格修養を力説する安昌浩の考えに従って,朝鮮人の精神的な改造を説いた。…

※「李光洙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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