改訂新版 世界大百科事典 「村山等安」の意味・わかりやすい解説
村山等安 (むらやまとうあん)
生没年:1566-1619(永禄9-元和5)
近世初期の長崎代官。東安,東庵とも書く。洗礼名はアントニオ(安東)。名古屋の出身(ほかに広島,博多の説がある)で天正年間(1573-92)長崎に来て,末次平蔵の父興善の庇護をうけた。才知,弁舌にすぐれ,南蛮菓子,南蛮料理に通じていた。1592年(文禄1)朝鮮の役で名護屋に滞在していた豊臣秀吉のもとに長崎の惣代として派遣され,秀吉の目にとまり,彼の勧めで名前を安東から東安に改めたという。92年から1616年(元和2)まで長崎代官を務め,長崎での外国貿易,行政に手腕をふるい巨利を得,やがてイエズス会や末次平蔵と対立するに至った。キリスト教徒として教会や修道会に多額の喜捨を行い,とくにドミニコ会を援助した。16年平蔵から職務上の不正を告発され,さらに長男徳安が宣教師をかくまったこと,国外追放された三男で司祭のフランシスコをかくまったこと,大坂の陣では西方に兵糧弾薬を提供し,三男も籠城したことなどが明るみに出て,等安は江戸で斬首,一家13名も長崎で処刑された。
執筆者:岸野 久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報