松井石根(読み)マツイイワネ

デジタル大辞泉 「松井石根」の意味・読み・例文・類語

まつい‐いわね〔まつゐいはね〕【松井石根】

[1878~1948]軍人。陸軍大将愛知の生まれ。日中戦争上海派遣軍司令官・中支方面軍司令官などを歴任戦後極東国際軍事裁判南京大虐殺責任者とされ、絞首刑になった。

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精選版 日本国語大辞典 「松井石根」の意味・読み・例文・類語

まつい‐いわね【松井石根】

  1. 軍人。陸軍大将。愛知県出身。フランス中国に長く駐在。ジュネーブ軍縮会議全権委員となり、のち中支那方面軍司令官を勤めた。南京事件責任者として極東国際軍事裁判で絞首刑。明治一一~昭和二三年(一八七八‐一九四八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松井石根」の意味・わかりやすい解説

松井石根
まついいわね
(1878―1948)

明治・大正・昭和時代の軍人。明治11年7月27日、名古屋に生まれる。1897年(明治30)陸軍士官学校卒業。陸軍大学校在学中、日露戦争に従軍。1906年(明治39)から1919年まで参謀本部員、その間中国に駐在すること前後2回8か年に及び、国民党の袁世凱(えんせいがい)打倒に協力した(軍部内の「南方派」の一人)。1918年(大正7)大佐、1923年少将、1927年(昭和2)中将、1933年大将に昇進し、1935年予備役となる。その間、歩兵第二九連隊長、浦塩(ウラジオ)派遣軍参謀、ハルビン特務機関長、第三五旅団長、参謀本部第二部長、第一一師団長、ジュネーブ一般軍縮会議全権委員、台湾軍司令官、軍参議官を歴任した。1937年日中戦争が起こり現役に復帰、8月上海(シャンハイ)派遣軍司令官、10月中支那(しな)方面軍司令官となり、首都南京(ナンキン)を攻略し、翌1938年3月復員。年来大アジア主義を主張し、晩年熱海(あたみ)伊豆山に隠棲(いんせい)して、観音堂戒壇を建立し日中両国の犠牲兵を合祀(ごうし)した。敗戦後、極東国際軍事裁判において南京占領時の大残虐事件の責により死刑を宣告され、昭和23年12月23日処刑された。

[洞 富雄]

『横山健堂著『松井大将伝』(1938・八紘社)』『松井七夫著『兄松井石根を語る』(1938・富士書房)』『田中正明著『“南京虐殺”の虚構(松井大将の日記をめぐって)』(1984・日本教文社)』

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20世紀日本人名事典 「松井石根」の解説

松井 石根
マツイ イワネ

大正・昭和期の陸軍大将



生年
明治11(1878)年7月27日

没年
昭和23(1948)年12月23日

出生地
愛知県名古屋市

学歴〔年〕
陸士(第9期)〔明治30年〕卒,陸大〔明治39年〕卒

経歴
漢学者の六男で、陸士を出て日露戦争に出征し戦勝。陸大卒後はハルビン特務機関長、参謀本部第2部長、第11師団長、ジュネーブ軍縮会議全権委員、軍事参議官などを歴任。昭和8年大将に進級。10年予備役となるが、12年召集、上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官を務め、南京攻略戦を指揮。13年復員し、7月内閣参議官、のち大政翼賛会興亜総本部総理。陸士では荒木貞夫、真崎甚三郎と同期で、早くから陸軍部内の中国通として知られ、大アジア主義を提唱、大亜細亜協会を主宰した。派閥的には無色だった。しかし上海派遣軍司令官時代に南京虐殺事件が発生、このため戦後の東京裁判でその責任を問われ、23年12月23日A級戦犯として絞首刑に処せられた。平成5年南京事件以前の日記(12年8月〜10月)が発見された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松井石根」の意味・わかりやすい解説

松井石根
まついいわね

[生]1878.7.27. 愛知
[没]1948.12.23. 東京
陸軍軍人。 1896年陸軍士官学校,1906年陸軍大学校卒業。 21年ハルビン特務機関長,軍事参議官など歴任後,33年台湾軍司令官,大将。 35年に予備役に入った。 37年日中戦争の開始で召集され,上海派遣軍司令官,11月に編成された中支那派遣軍司令官となり,12月に南京を攻略した。 38年に復員し,その後は大政翼賛会などに関係。第2次世界大戦後の 48年,南京大虐殺の責任を問われて,A級戦犯として刑死。

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百科事典マイペディア 「松井石根」の意味・わかりやすい解説

松井石根【まついいわね】

陸軍大将。名古屋生れ。陸大卒。ウラジボストク派遣軍参謀,第11師団長,台湾軍司令官等を歴任。中国通として知られた。1937年から中支方面軍司令官として上海・南京攻略の最高指揮官となった。東京裁判南京大虐殺の責任を問われ死刑。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松井石根」の解説

松井石根 まつい-いわね

1878-1948 明治-昭和時代前期の軍人。
明治11年7月27日生まれ。第十一師団長,ジュネーブ軍縮会議全権委員,台湾軍司令官などを歴任。昭和8年陸軍大将。日中戦争では上海派遣軍司令官,中支那方面軍司令官となる。南京大虐殺の責任者としてA級戦犯となり,昭和23年12月23日処刑された。71歳。愛知県出身。陸軍大学校卒。

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367日誕生日大事典 「松井石根」の解説

松井 石根 (まつい いわね)

生年月日:1878年7月27日
大正時代;昭和時代の陸軍軍人。大将
1948年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松井石根の言及

【南京大虐殺】より

…1937年(昭和12)8月,日中戦争は華北から華中に拡大,日本軍は上海で中国軍の激しい抗戦に直面し,大きな損害を被った。11月上旬ようやく中国軍を退却させると,中支那方面軍(軍司令官松井石根大将)は,指揮下の上海派遣軍(軍司令官朝香宮鳩彦王中将)と第10軍(軍司令官柳川平助中将)を,与えられていた任務を逸脱して国民政府の首都南京に向かって急進撃させた。上海戦で疲労し,凱旋の期待を裏切られた日本軍兵士は自暴自棄となり,補給がともなわず現地徴発に頼ったこと,中国侮蔑感情や戦友の仇を討つという郷党意識にとらわれていたことなども加わって,南京への進撃途上ですでに略奪・強姦・虐殺・放火などの非行が常態化する状況となった。…

※「松井石根」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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