松前崇広
まつまえたかひろ
(1829―1866)
江戸後期、幕末の松前藩主。第9代藩主松前章広(あきひろ)の第6子。文政(ぶんせい)12年11月15日生まれ。幼名を盈之助(えいのすけ)、ついで為吉(ためきち)と称し、襲封後崇広(たかひろ)と改めた。1849年(嘉永2)藩主昌広(まさひろ)の致仕により襲封したが、同年幕府より特旨をもって城主に列せられ、新城の築城を命ぜられた。新城は1854年(安政1)に完成、福山城と称した。しかし、箱館(はこだて)開港に伴い翌1855年、城付地以外の旧領地の大部分が幕領となり、替地として陸奥(むつ)国伊達(だて)郡梁川(やながわ)(福島県)、出羽(でわ)国村山郡東根(ひがしね)(山形県)に計3万石が宛行(あておこな)われた。1863年(文久3)幕府の寺社奉行(ぶぎょう)に任ぜられ、まもなく辞したが、翌1864年(元治1)7月老中格、海陸軍総奉行(翌年海陸軍総裁)となり11月老中に任ぜられた。以後、幕権拡張論者の老中阿部正外(あべまさと)と行動をともにし、1865年(慶応1)兵庫開港問題で阿部とともに勅旨によって罷免され、翌慶応(けいおう)2年帰藩し4月25日松前で没した。
[榎森 進]
『『新撰北海道史 第2巻 通説1』(1937・北海道庁)』▽『金井圓・村井益男編『新編物語藩史 第1巻』(1975・新人物往来社)』
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松前崇広 (まつまえたかひろ)
生没年:1829-66(文政12-慶応2)
幕末の松前藩主。第9代藩主松前章広の第6子。幼名盈之助,ついで為吉。1849年(嘉永2)兄の藩主昌広の致仕により襲封したが,同年幕府より特旨をもって城主に列せられ,新城の築城を命ぜられた。新城は54年(安政1)完成,福山城と称した。しかし,箱館開港にともない翌55年城付地以外の旧領地の大部分が幕領となり,替地として陸奥国伊達郡梁川,出羽国村山郡東根に計3万石があてがわれた。63年(文久3)4月幕府の寺社奉行となり,まもなく免ぜられたが,64年(元治1)7月老中格,海陸軍総奉行(65年海陸軍総裁)となり,11月老中に任ぜられた。以後幕権拡張論者の老中首座阿部正外と行動をともにし,65年(慶応1)兵庫開港問題で阿部とともに勅旨によって罷免された。翌年帰藩し,松前で病没した。
執筆者:榎森 進
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松前崇広
没年:慶応2.4.25(1866.6.8)
生年:文政12.11.15(1829.12.10)
幕末の松前藩主。幼名為吉,次いで盈之助。嘉永2(1849)年,甥に当たる12代昌広が病気で隠退し,13代藩主となる。従五位下,伊豆守に叙任された。この時期,蝦夷地周辺への外国船の出没が顕著になり,幕府は北辺防備のため崇広を城主に列し,築城を命じた。城は安政1(1854)年松前に完成,福山城と名付けられた。同2年箱館開港に伴い,松前,江差周辺を除く蝦夷地が幕府直轄となり,替地として陸奥国伊達郡梁川,出羽国村山郡東根に3万石の領地をあてがわれた。元治1(1864)年老中格,次いで老中となり,海陸軍総奉行,次いで陸海軍総裁を兼ねた。慶応1(1865)年の兵庫開港問題では,老中阿部正外と共に開港承認を主張したが,朝廷の命により官位を奪われ,老中を罷免され,国許での謹慎を命じられた。失意のなか帰藩し,38歳で病死。馬術に優れ,民間の実情に通じ,西洋文明に関心が深かったという。<参考文献>「福山城を築く―松前崇広―」(『開拓の群像』中)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
松前崇広 まつまえ-たかひろ
1829-1866 幕末の大名。
文政12年11月15日生まれ。松前章広(あきひろ)の6男。甥(おい)昌広(まさひろ)のあと,嘉永2年蝦夷(えぞ)地(北海道)松前藩主12代となる。安政元年北辺警護のため幕命で福山に築城。2年領地の大半が幕府の直轄地となり,替地として陸奥(むつ)梁川(やながわ)(福島県)などに3万石をあたえられる。寺社奉行をへて元治(げんじ)元年老中兼海陸軍総裁。慶応元年兵庫開港問題で老中を罷免されて謹慎となる。慶応2年4月26日死去。38歳。通称は為吉。志摩守(しまのかみ)。
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松前崇広
まつまえたかひろ
江戸時代後期,第 12代松前藩主。伊豆守。嘉永2 (1849) 年家督を継ぎ,城主格,文久3 (63) 年寺社奉行,次いで元治1 (64) 年老中となり,幕府権力の強化を主張した。長州征伐を企画し,兵庫開港問題では朝議を排除しようとした。
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松前崇広 (まつまえたかひろ)
生年月日:1829年11月15日
江戸時代末期の大名
1866年没
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世界大百科事典(旧版)内の松前崇広の言及
【陸軍総裁】より
…幕府は軍制改革の過程で1862年(文久2)西洋式の陸軍三兵を組織し,元帥に相当する陸軍総裁職を設け,12月8日徳島藩主蜂須賀斉裕(なりひろ)を任じた。翌年1月斉裕が辞任の後,陸海軍の総括は老中の任務となり,64年(元治1)から65年(慶応1)にかけては海陸軍総奉行兼帯の老中格[松前崇広](たかひろ)が陸海軍行政の専任を務めた。66年(慶応2)老中格松平乗謨(のりあきら)が陸軍総裁となり,海軍,国内事務,外国事務,会計の各総裁にもそれぞれ老中が任じられ,67年6月幕閣の五局専任制が発足した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」