松坂城跡(読み)まつさかじようあと

日本歴史地名大系 「松坂城跡」の解説

松坂城跡
まつさかじようあと

[現在地名]松阪市殿町

天正一六年(一五八八)蒲生氏郷はその本拠地をまつしまから飯高いいたか矢川やがわ四五百よいほ森に移して松坂城を建設した。四五百森は「神宮雑例集」に四藺御園(御厨と記す異本もある)、「神鳳鈔」に「外宮六斗四藺生御薗」あるいは四御厨とあり、四藺生御薗は「建久元注文定」の内に含まれている。すべてその所在は多気たけ郡と記されており、郡名の誤解か、それとも多気郡飯高郡四五百森とは別個の四藺生なる御園ないし御厨があったのか詳細は不明である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「松坂城跡」の解説

まつさかじょうあと【松坂城跡】


三重県松阪市殿町にある城跡。現在は松阪城と表記される。市街地のほぼ中央に位置し、伊勢平野を流れる阪内(さかない)川と櫛田川に挟まれた標高35mあまりの独立丘陵上に築かれている。1584年(天正12)に伊勢国を与えられた蒲生氏郷(がもううじさと)が、それまであった松ヶ島城に入り、1588年(天正16)、松ヶ島は狭小なため、現在地に築いた城に入り、松ヶ島城下の商人寺社を移住させ、また旧領の近江日野の商人を呼び寄せ、城下町の整備を行った。城は大手を北東に、搦手(からめて)を南東に置き、本丸を中心に二の丸・三の丸・希代(きたい)丸・隠居丸などの曲輪(くるわ)を配置し、本丸には3層の天守が建てられた。本丸・二の丸をはじめ、各曲輪には野面積みによる豪壮石垣が築かれ、とりわけ天守台の石垣はよく残っている。発掘調査では安土城と同笵とみられる「天正七年」(1579年)の銘がある軒平瓦(のきひらがわら)や金箔を押した瓦が大量に出土した。1590年(天正18)、小田原攻めの軍功により、氏郷が陸奥国会津に移った後は服部一忠が入城した。しかし、一忠は豊臣秀次事件に連座したとされて切腹、その後に入った古田氏も転封され、1619年(元和5)以降、南伊勢紀州藩藩領となり、明治維新を迎える。2011年(平成23)、国の史跡に指定された。JR紀勢本線ほか松阪駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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