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松本治一郎 まつもとじいちろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

松本治一郎
まつもとじいちろう

[生]1887.6.18. 福岡
[没]1966.11.22. 福岡
政治家。部落解放運動者。 1922年3月,水平社の創立と同時に部落解放運動に参加,26年委員長となる。第2次世界大戦後は組織を再建し,部落解放同盟を設立,中央委員長となり,指導的役割を果し,部落解放の父と慕われた。また 36年社会大衆党から代議士当選,以来当選3回。戦後初の国会議員選挙では,日本社会党から参議院全国区で当選,参議院の初代副議長に選ばれた。 49年公職追放になったが,51年解除され,以後参議院に4回当選した。社会党内では最左派に属し,党顧問,その他日中友好協会会長,アジア民族親善協会会長などもつとめた。

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デジタル大辞泉の解説

まつもと‐じいちろう〔‐ヂイチラウ〕【松本治一郎】

[1887~1966]社会運動家・政治家。福岡の生まれ。水平社運動に参加し、大正14年(1925)全国水平社委員長、のち社会大衆党から衆議院議員に当選。第二次大戦後、部落解放全国委員会(のちの部落解放同盟)委員長・参議院議員・初代参議院副議長・日中友好協会会長などを務め、部落解放運動・平和運動を指導。

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百科事典マイペディアの解説

松本治一郎【まつもとじいちろう】

部落解放運動家,政治家。福岡市生れ。1923年全九州水平社を結成,委員長となる。1925年全国水平社中央委員会議長,1926年委員長。福岡連隊事件(軍隊内での反差別・反軍闘争)で投獄されるが,仮出獄後の1936年代議士に当選。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松本治一郎 まつもと-じいちろう

1887-1966 大正-昭和時代の社会運動家,政治家。
明治20年6月18日生まれ。大正10年筑前(ちくぜん)叫革団を結成。14年全国水平社中央委員会議長となる。昭和11年衆議院議員(当選3回)。21年部落解放全国委員会(のち部落解放同盟)委員長。22年参議院議員(当選4回)。社会党左派の中心として活躍。参議院副議長のとき,天皇に対する「カニの横ばい」式拝謁を拒否した。28年日中友好協会初代会長。平和運動,人種差別反対運動にも尽力。昭和41年11月22日死去。79歳。福岡県出身。
【格言など】不可侵,不可被侵(信条)

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世界大百科事典 第2版の解説

まつもとじいちろう【松本治一郎】

1887‐1966(明治20‐昭和41)
部落解放運動の指導者,政治家。福岡県出身。上京して錦城中学校に学んだが,被差別部落出身者への差別に憤って帰郷し,土建業をおこした。1921年筑前叫革団を結成して差別糾弾闘争をはじめ,翌年全九州水平社を設立。25年全国水平社の中央委員会議長(のち中央執行委員長)に選任され,翌年には労働農民党の中央執行委員となった。36年衆議院議員に初当選し,院内でも華族制度廃止・部落差別撤廃のためにたたかった。45年日本社会党に入党し,翌年部落解放全国委員会(1955年部落解放同盟と改称)の中央執行委員長に推された。

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大辞林 第三版の解説

まつもとじいちろう【松本治一郎】

1887~1966) 社会運動家・政治家。福岡県生まれ。1926年(大正15)全国水平社中央委員会議長、46年(昭和21)部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)委員長、47年初代参議院副議長などを歴任、部落解放運動の最高指導者として活躍した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松本治一郎
まつもとじいちろう
(1887―1966)

社会運動家、政治家。福岡県那珂(なか)郡金平(かねひら)村(現、福岡市)出身。被差別部落に生まれ、1916年(大正5)博多(はかた)毎日新聞社差別事件を機に部落差別との闘いを自覚。1921年筑前叫革(ちくぜんきょうかく)団を結成、1923年には水平社運動に参加し、1925年全国水平社委員長に選出された。以後、1942年(昭和17)全国水平社が消滅するまで委員長職を務め、その間、1924年(大正13)徳川家達(いえさと)暗殺未遂容疑で、1926年福岡連隊爆破未遂事件で、それぞれ逮捕されるが弾圧に屈せず、1936年福岡1区より衆議院議員に初当選。社会大衆党の客員として労農無産協議会との戦線統一にも奔走した。日中戦争勃発(ぼっぱつ)後は、基本的には国策に協力しながらも、議会で日本軍の中国における行動を批判したり、部落差別、アイヌ民族への差別についても問題にするなど反差別の主張だけは捨てなかった。
 第二次世界大戦後、1947年(昭和22)日本社会党から参議院議員に当選、初代参議院副議長に選出されたが、主権在民の意義を示すため天皇に対する「カニの横ばい」式の拝謁(天皇に尻をみせないように横向きに歩く慣習)を拒否した。また、1946年(昭和21)部落解放全国委員会(1955年より部落解放同盟)の委員長、1953年日中友好協会会長となり、部落解放運動・平和運動の指導者として活動を続けた。[藤野 豊]
『部落解放同盟中央本部編『松本治一郎伝』(1987・解放出版社) ▽福岡人権研究所編『西日本人物誌16 松本治一郎』(2003・西日本新聞社) ▽高山文彦著『水平記――松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』上下(新潮文庫)』

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世界大百科事典内の松本治一郎の言及

【日中友好協会】より

…全称は日本中国友好協会。1950年10月に結成された(初代会長松本治一郎,同理事長内山完造)。日中国交正常化以前は中国との交流の窓口の一つとして,残留日本人の帰国問題などで大きな役割を果たしたが,66年,日中両国共産党の関係悪化にともなって分裂し,非日共系の人々は別に日中友好協会〈正統〉を結成した。…

【被差別部落】より

…長期計画の内容は,経済更生施設の増加,日雇労働組合・協同組合の編成,部落産業の奨励,共同販売組織の編成,隣保館・託児所・診療所・共同浴場の増設,住宅・道路・上下水設備の改善,地区指導者の育成など経済・日常生活面でのさしせまった問題の解決策から,〈融和事業に関する教育的方策要綱〉に示された学校教育・社会教育での〈融和教育〉の実施までもが視野に収められており,画期的ともいうべきこの計画の実現のためには,総予算5000万円,初年度予算600万円が必要とされたのであったが,おりからの軍国主義化・戦争拡大・軍事費の膨張という事態のもとでは実現はむずかしくなり,国の予算編成に際しては大幅に削減され,初年度額はわずか150万円(従来どおりか,もしくはそれ以下)にきりつめられたため,めだった効果はみられなかった。
[戦時体制下の被差別部落]
 1936年2月,全国水平社の松本治一郎(福岡市出身)が衆議院議員選挙で当選し,第69帝国議会において,被差別部落出身の代議士として堂々の論陣を張り,〈人民融和に関する質問〉〈華族制度改正に関する質問書〉を提起,明治以来の身分制度を厳しく批判するとともに,その後も一貫して被差別部落に対する差別にかかわる〈国家〉の責任の重大性を指摘しつづけた。しかし,37年7月,〈日中戦争〉の勃発と拡大は国内のファッショ化をいちだんと強化し,いわゆる〈挙国一致〉の戦時体制のもと,あらゆる革新政党・運動団体がそうであったように,水平社もまた苦渋を忍んで方針を転換せざるをえず,侵略戦争の遂行を基本とする〈国策〉をあえて容認し,戦争協力を声明しつつ,被差別部落大衆の生活維持に意を注がねばならなかった。…

※「松本治一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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