部落解放同盟(読み)ぶらくかいほうどうめい

改訂新版 世界大百科事典 「部落解放同盟」の意味・わかりやすい解説

部落解放同盟 (ぶらくかいほうどうめい)

被差別部落(同和地区)とその出身者に対する部落差別の撤廃と被差別部落の完全解放をめざす自主的・大衆的な運動団体。第2次大戦後の1946年,松本治一郎朝田善之助,北原泰作ら旧水平社運動の指導者と,武内了温梅原真隆,山本政夫ら旧融和運動の指導者とが発起人となり,水平社の〈革命的伝統〉をうけついで,新たに部落解放全国委員会(解放委員会)を結成,のち55年に部落解放同盟と改称した(中央執行委員長松本治一郎,1967年朝田善之助,70年松井久吉,84年上杉佐一郎)。解放委員会は初め大衆組織ではなく解放運動の中核体であり,おりからの民主化に期待を寄せたこともあって,各地の差別事件を表面的に処理する傾向が強く,地区住民の生活要求を組織してたたかうことが弱かった。1951年の京都《オール・ロマンス》事件以後は,行政の停滞と怠慢を追及する行政闘争の展開によって,実践的にも組織的にも発展をとげた。これを背景に55年,その名称を大衆組織にふさわしい部落解放同盟(解放同盟)と改めた。

 解放同盟は各地方公共団体に対する行政闘争を強化しながら,1958年から日本社会党,日本共産党をはじめとする革新政党,民主団体や地方公共団体などと共同して部落解放国策樹立要求の国民的運動を進めた。また1957,58年の勤評闘争,60年の安保反対闘争に参加するとともに,三井三池争議を支援し,第二組合による部落差別を糾弾した。また同年,第15回大会で全国水平社以来の部落解放運動の伝統と成果を総括して新しい綱領を決定,部落解放運動が〈平和と独立と民主主義〉のための広範な国民運動の一環であり,そのための統一戦線の一翼であると位置づけ,〈生活の向上と環境改善,社会保障獲得〉〈土地と仕事と産業振興〉〈部落解放の教育と文化確立〉等に向けて運動を進めることを明らかにした。国策樹立要求運動の成果として,65年同和対策審議会の答申(同対審答申)が出され,69年には同和対策事業特別措置法(1982年,地域改善対策特別措置法継承)が制定された。解放同盟はこの運動を通じて組織を拡大し,被差別部落の生活と環境の改善はいちじるしく進んだ。しかし,1965年の第20回大会では,同対審答申の評価,行政闘争の方針,〈政党支持の自由〉問題などをめぐって内部に激しい意見の対立が生じ,さらに日本社会党,日本共産党,民社党など革新政党の動向の影響も加わり対立は表面化した。やがて中央本部の方針に批判的な同盟員は,日本共産党の影響下にある人々を中心に,70年,部落解放同盟正常化全国連絡会議(1976年に全国部落解放運動連合会に改組)を結成した。

 解放同盟は〈部落差別の本質〉〈社会的存在意義〉〈社会意識としての差別観念〉などの命題にもとづく運動方針を掲げて,被差別部落の人々の切実な生活要求を核に運動を構築することをめざした。また,狭山事件(1963)の公正裁判・被告釈放,さらに再審開始要求の運動,《部落地名総鑑》問題(1975)や宗教界の差別などに対する糾弾を進め,1975年には総評などの労働組合と部落解放中央共闘会議を結成した。さらに国際人権規約の調印と批准(1979)や,世界人権宣言の具体化と人種差別撤廃条約の早期批准要求(1983)などの運動を展開し,反差別運動の国際連帯の努力も積み重ねた。84年には綱領前文を改め,また地域改善対策特別措置法(1982制定)の失効(1987)後を展望して,部落解放基本法・差別禁止法の制定要求運動に努力を傾注しはじめている。
同和教育 →同和対策 →被差別部落 →部落解放運動
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百科事典マイペディア 「部落解放同盟」の意味・わかりやすい解説

部落解放同盟【ぶらくかいほうどうめい】

被差別部落の解放をめざす団体。1946年,全国水平社の伝統を受け継いで部落解放全国委員会が結成され,1955年現名に改称。中央執行委員長には引続き松本治一郎が就任した。以後部落解放運動の中心団体として様々な活動に取組み,1980年代半ば以降は完全な解放を目的に〈部落解放基本法〉の制定を運動の中心にすえるとともに,反差別国際運動を主導するなど先住民族・少数民族問題,人権問題にも積極的に取り組んでいる。→水平社運動
→関連項目狭山事件住井すゑ反差別国際運動

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「部落解放同盟」の意味・わかりやすい解説

部落解放同盟
ぶらくかいほうどうめい

1922年創設の全国水平社を継承する団体。 46年全国部落代表者会議を開き,松本治一郎を初代委員長として部落解放全国委員会が発足。 55年現在のように改称された。その後,主流派の社会党系同盟員と共産党系同盟員との間で糾弾問題をはじめとする部落開放運動のあり方や進め方をめぐって意見が対立,後者が 70年6月に「全国部落開放運動連合会」 (全解連) の前身である「部落解放正常化全国連絡会議」 (正常化連) を結成した。また 60年には保守系組織である「全日本同和会」が分裂し,さらにこの団体からも 86年に「全国自由同和会」が分離・独立したので,現在4つの組織がそれぞれ解放運動を進めている。解放同盟は機関紙『解放新聞』を発行。 (→同和問題 )

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「部落解放同盟」の解説

部落解放同盟
ぶらくかいほうどうめい

第2次大戦後の部落解放運動の全国組織。1955年(昭和30)8月部落解放全国委員会を改組して成立。勤務評定反対闘争などを支援するなかで大衆団体として組織を拡大。部落問題解決のための国家施策を要求し,69年時限立法として同和対策事業特別措置法の制定をえた。内部に意見の対立がうまれ,反主流派は70年に部落解放同盟正常化連絡会議を結成(76年全国部落解放運動連合会に改組)。運動は分裂したまま今日に至っている。

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世界大百科事典(旧版)内の部落解放同盟の言及

【同和対策】より

…この年,京都市の職員が雑誌《オール・ロマンス》に市内の地域を題材にして差別的な内容の小説を発表した〈オール・ロマンス事件〉を契機とした差別糾弾闘争のなかで,解放委は行政の停滞と怠慢が部落差別を助長させているとして,行政闘争の方針を提起し,地方公共団体に同和行政の質的な転換を迫った。さらに57年からは,部落解放同盟(1955年,解放委が改称)を中心に地方公共団体,民主団体などが結集して,部落解放国策樹立要請運動を進めた。その結果,60年,内閣に同和対策審議会を設置することが決まり,65年には同審議会から〈同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策〉についての答申が提出された。…

【被差別部落】より

…なお,戦後初の〈地方改善事業〉予算が,わずかながら厚生省で計上されたのは,1953年のことであった。 1955年8月,部落解放全国委員会は,大阪市での第10回全国大会の決定により,〈部落解放同盟〉と改称,58年以降は部落差別の完全撤廃を国民的課題として提唱し,そのための〈国策の樹立〉を,たゆまずに国に要求していく方向へと向かった。60年の〈同和対策審議会〉の設置,65年の〈同和対策審議会答申〉,66年の〈同和対策協議会〉の設置等々の一連の事態をへて69年7月に公布・施行された〈同和対策事業特別措置法〉は,その発足前後において,かえって被差別部落大衆の〈自力更生〉の精神をむしばみはしないかとの危惧の念に立つ意見も部落解放同盟の内部に強くあったし,また結果的には時限立法(10ヵ年)であること,環境改善事業の実施を中心としていること,ならびに,国の責任の所在が明瞭でなく,国よりも地方自治体の財政上の負担がはるかに過重になったこと,同和対策の目標のいかんをめぐる深刻な意見対立などで,重大な課題を後に残しはしたものの,この法にもとづいて,被差別部落大衆の積年の切実な願望であった生活条件,教育条件等々の抜本的改善が漸次積み重ねられてきたことは明白であり,〈戦後〉部落解放運動の大きい成果であった。…

【部落解放運動】より

…52年,広島県の吉和中学校における差別事件を契機に,同和教育は被差別部落の学童の進路を保障し,教育行政の責任と課題を提起していく運動として質的な転換をとげ,53年には全国同和教育研究協議会が結成された。 解放委員会は1955年,大衆組織にふさわしい部落解放同盟(解放同盟)と改称した。解放同盟は58年から〈部落問題を全国民の課題へ〉というスローガンの下に,日本社会党,日本共産党などの革新政党や民主団体,地方公共団体と共同して,部落解放国策樹立要求運動を展開した。…

※「部落解放同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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