林武(読み)ハヤシタケシ

デジタル大辞泉 「林武」の意味・読み・例文・類語

はやし‐たけし【林武】

[1896~1975]洋画家。東京の生まれ。本名、武臣たけおみ独立美術協会の設立に参加。フォービスムを基調として、重厚なマチエール、明確な構図の具象画を描いた。文化勲章受章

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共同通信ニュース用語解説 「林武」の解説

林武

林 武(はやし・たけし)東京生まれの洋画家。本名は武臣たけおみ。日本美術学校(現日本美術専門学校)を中退し、絵画はほぼ独学。1921年に二科展に初入選し、その後二科賞も受けた。30年に独立美術協会の結成に参加。戦後原色を多用し、独特な質感と絵の具を盛り上げる手法で人気を得た。東京芸術大教授なども務めた。67年に文化勲章を受章。

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精選版 日本国語大辞典 「林武」の意味・読み・例文・類語

はやし‐たけし【林武】

  1. 洋画家。本名武臣。東京出身。はじめ二科会活躍。独立美術協会の創立者一人。フォービスムを基盤とし、独自の具象画を確立昭和四二年(一九六七)文化勲章受章。明治二九~昭和五〇年(一八九六‐一九七五

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20世紀日本人名事典 「林武」の解説

林 武
ハヤシ タケシ

大正・昭和期の洋画家 東京芸術大学名誉教授。



生年
明治29(1896)年12月10日

没年
昭和50(1975)年6月23日

出生地
東京

本名
林 武臣(ハヤシ タケオミ)

学歴〔年〕
日本美術学校(現・東京芸術大学)〔大正10年〕中退

主な受賞名〔年〕
樗牛賞〔大正10年〕「婦人像」,二科賞〔大正11年〕「本を持てる婦人像」,毎日美術賞(第1回)〔昭和24年〕「梳る女」,現代日本美術展大衆賞〔昭和31年〕,日本芸術院賞〔昭和34年〕,朝日文化賞(昭41年度)〔昭和42年〕,文化勲章〔昭和42年〕

経歴
小学校の同級生に東郷青児がいた。牛乳配達、歯科医助手、新聞配達、ペンキ絵売りなどを経て画家志望となる。大正10年第8回二科展に「婦人像」が初入選、樗牛賞受賞。11年「本を持てる婦人像」で二科賞受賞。二科会会友となり、15年に1930年協会に参加、昭和5年独立美術協会創立に参加。9年〜10年渡欧。24年第3回美術団体連合展に発表した「梳る女」が第1回毎日美術賞を受賞、一躍画壇の寵児的存在となった。他の代表作に「星女嬢」「十和田湖」「舞妓」「静物」などの連作、「コワヒューズ」「熱海風景」」「ノートルダム」、晩年は「富士山」の連作など。初期にドランマチスなどの影響を受け、フォービズムを基調としながら独自の構成理論を持ち、重厚な質感と激しい筆触で情熱的な心情を表現した。27〜38年東京芸大教授を務めたほか、戦後の国語、国字改革を批判する立場から46年国語問題協議会会長となり、「国語の建設」を出版した。


林 武
ハヤシ タケシ

昭和・平成期の中東問題研究家,都市社会学者 大東文化大学国際関係学部教授。



生年
昭和5(1930)年4月3日

没年
平成12(2000)年8月1日

出生地
北海道

学歴〔年〕
小樽商科大学〔昭和28年〕卒,一橋大学大学院〔昭和33年〕博士課程修了

学位〔年〕
社会学博士(一橋大学)

経歴
昭和53〜58年アジア経済研究所調査役。国際連合大学プロジェクトを担当、コーディネーターとして作業を企画・実施。のち大東文化大学教授。著書に「技術と社会―日本の経験」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「林武」の意味・わかりやすい解説

林武 (はやしたけし)
生没年:1896-1975(明治29-昭和50)

洋画家。国学者林甕臣の子として東京に生まれる。本名武臣。早稲田実業学校予科を中退ののち,さまざまの職を転々とするが,画家としてデビューするのは1921年の第8回二科展に《婦人像》が初入選(樗牛賞)してからである。23年万鉄五郎を中心とする円鳥会に加わっている。二科展ないし一九三〇年協会展にも出品。30年独立美術協会が創立されるに及んで,以後同会を主要な発表の場とする。エミール・ベルナールの《回想のセザンヌ》(有島生馬訳)に感銘してセザンヌに傾倒。34-35年にはヨーロッパへ遊学し,帰国後の36年第6回独立美術協会展で滞欧作15点を発表。マティスやドランの影響をうけて,形態を単純化し構築的で重量感のある作品を描く。49年第3回美術団体連合展に出品した《梳る女》をはじめとする画業に対して,第1回毎日美術賞をうけ,画壇の寵児的存在となる。《星女嬢》や《十和田湖》をはじめとする連作は,《舞妓》などの連作を経て《ノートルダム》,そして晩年の連作《富士山》へと展開。重厚なマチエールと厳格な構図法によって独得のスタイルを生み出す。52-63年東京芸術大学教授。67年には第37回朝日賞,文化勲章を受けた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林武」の意味・わかりやすい解説

林武
はやしたけし
(1896―1975)

洋画家。明治29年12月10日東京に国学者林甕臣(みかおみ)の子として生まれる。本名は武臣(たけおみ)。1920年(大正9)日本美術学校に入学するが、中退。21年二科展に初入選で樗牛(ちょぎゅう)賞を受け、続いて翌年二科賞を受ける。26年に一九三〇年協会会員、二科会会友となるが、30年(昭和5)同志と独立美術協会を創立し、没するまで同会で活躍した。34~35年渡仏し、ヨーロッパ各地を巡遊。『コワフューズ』ほか滞欧作にキュビスムの影響を示す。第二次世界大戦後は、49年(昭和24)美術団体連合展に『梳(くしけず)る女』を出品し、第1回毎日美術賞を受賞。また、52~63年には東京芸術大学教授として後進を指導する。56年現代日本美術展で大衆賞を受賞し、59年には日本芸術院賞を贈られる。国際形象展同人としても活躍し、67年朝日賞と文化勲章を受けた。71年国語問題協議会会長となる。独自の構成理論をもち、洋画界における具象系の闘将として知られた。昭和50年6月23日東京で没。

[小倉忠夫]

『今泉篤男他解説『現代日本の美術9 海老原喜之助/林武』(1976・集英社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林武」の意味・わかりやすい解説

林武
はやしたけし

[生]1896.12.10. 東京
[没]1975.6.23. 東京
洋画家。本名,武臣。 1920年日本美術学校に入学後すぐ中退,翌年より二科展に出品して樗牛賞,二科賞を連続受賞。 26年二科会会友となる。同年,一九三〇年協会の設立に参画,さらに 30年独立美術協会を結成。 34~35年渡欧。フォービスムを基調とし,重厚な質感をもった強烈な色彩と構成的要素の強い作品を制作。現代具象絵画を代表する作家。 50年第1回毎日美術賞,59年日本芸術院賞を受賞。 62年国際形象展同人となり,67年文化勲章,朝日文化賞を受けた。 52~63年東京芸術大学教授として後進を指導,同大学名誉教授。主要作品は『裸婦』 (1930,兵庫県立近代美術館) ,『梳る女』 (49,大原美術館) ,『婦人像』 (58,東京国立近代美術館) ,『ノートルダム』 (60,愛知県文化会館美術館) 。

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百科事典マイペディア 「林武」の意味・わかりやすい解説

林武【はやしたけし】

洋画家。東京生れ。本名武臣(たけおみ)。1921年日本美術学校に入学したが,同年中退。同年二科展に出品し樗牛賞を受け,1926年二科会会友に推された。同年〈1930年協会〉会員となり,1930年には二科会を去って独立美術協会の創立に参加。1952年―1963年東京芸術大学教授。強烈な表現と独自の造形理論で知られる。1967年文化勲章。
→関連項目児島善三郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林武」の解説

林武 はやし-たけし

1896-1975 大正-昭和時代の洋画家。
明治29年12月10日生まれ。大正10年二科展に初入選。昭和5年独立美術協会を創立。9年渡欧。27年東京芸大教授。フォービスムをとりいれ,独自の構成理論にもとづく重厚な画風をきずいた。作品に「星女嬢」「梳(くしけず)る女」など。34年芸術院賞。42年文化勲章。昭和50年6月23日死去。78歳。東京出身。日本美術学校中退。本名は武臣。著作に「美に生きる」。

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367日誕生日大事典 「林武」の解説

林 武 (はやし たけし)

生年月日:1896年12月10日
大正時代;昭和時代の洋画家。東京芸術大学教授
1975年没

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世界大百科事典(旧版)内の林武の言及

【大田植】より

…田植自体を労働というより神事として考え,終了後は稲の豊穣を願って性の解放などもあった。中国地方や四国の山間部では近年までその様式が残り,囃子(はやし)田,花田植,太鼓田などと呼ばれたが,当日には近隣から多くの牛遣いや見物が集まり,酒食がふるまわれた。現在広島県山県郡・高田郡や島根県那賀郡などにその様式が残り,伝承のためにときどき行われる。…

【田植歌】より

…田植の作業に歌われる労作歌。実際の田植のほか,田遊(たあそび)や御田植神事,囃子田(はやしだ),田植踊などで歌われる。かつて田植作業は単なる労働だけでなく,大事な神事儀礼的な民俗行事でもあったから,かならず歌を伴っていた。…

【田植草紙】より

…1首の歌は音頭と早乙女の掛合を中心にほぼ5行で構成されるが,そうした歌の130首余りを朝・昼・晩の各4番,計12番に分けて配列し,田植の1日に歌うべき歌をもっとも巧みに整序したのが本書である。この場合の田植は囃子田(はやしだ)(花田植,大田植,供養田植)といわれ,儀式性・芸能性を強くもったハレの行事であった。囃子田は民俗芸能として伝承され,安芸,石見の一部では今に《田植草紙》の歌を歌いついでいる。…

【田楽】より

…一方,一般の田植でも民俗信仰行事として田植を囃すことは各地に伝えられた。とくに中国地方の山間部や,四国の一部では近年まで盛んに行われ,囃子田(はやしだ),田植囃子,花田植などの名で知られる。現在も広島県西部や島根県の山間部では民俗芸能として伝承されている。…

【囃子】より

…生(は)やす,殖(ふ)やすなどの語との関連が思われるが,各地の祭りでは,祭場での神迎え・神がかりのわざの伴奏や,神霊の渡御に奏する道行の囃子として発達し,前者では採物神楽(とりものかぐら),湯立神楽,獅子神楽などさまざまの神楽囃子となり,後者では美々しい装束の集団がにぎやかな囃子で道を練る松囃子や鷺舞(さぎまい)などの道中囃子や,山車(だし),屋台に楽器をのせて,それを奏しながら道を練る祇園囃子などの屋台囃子などに分化した。またほかに,祭場での歌舞や盆踊に演奏する踊り囃子や,田植の作業を笛・太鼓などではやしたてる囃子田などが伝えられた。なお,各地の祭り歌や民謡につく囃子詞も呪的内容を秘めたものが多い。…

【民俗芸能】より

…東北に分布する田植踊は歌と群舞で表現するもので,前者は中世ごろから寺院の初春行事であるオコナイと習合しながら普及し,後者は農家の小正月行事として近世に広く行われた。田植どきの芸能で著名なのは中国山地付近に残る囃子田(はやしだ)で,おおぜいの早乙女が田の神役のサンバイと,恋歌を掛け合いながら苗を植える。畦には太鼓,笛,ささら(簓)などの囃子方がいて伴奏役を勤めるが,この風俗は古く平安中期の《栄華物語》などにも見えて,当時すでに鑑賞芸能として貴族たちにもてはやされていたようである。…

※「林武」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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