改訂新版 世界大百科事典 「マティス」の意味・わかりやすい解説
マティス
Henri Matisse
生没年:1869-1954
フランスの画家,彫刻家,版画家。北フランスのル・カトー・カンブレジLe Cateau-Cambrésisに生まれる。はじめ法律を学ぶ。1891年パリのアカデミー・ジュリアンでブーグローに教わったのち,92年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)のモロー教室に入り,そこでマルケ,ルオー等を知る。このころはまだアカデミックな手法で手堅く描いていたが,97年のカイユボット遺贈展(リュクサンブール美術館)で印象派の作品に接するあたりから,にわかに作風に変化が生じ,形態をほとんど無視して色彩を大胆に並置させるようになる。点描主義にも感化され,《豪奢,静寂,逸楽》(1904-05)といった均衡のとれた佳作も描くが,1905年ごろマティスの印象主義理解は,強烈な色彩を本能的に並置するフォービスムとなって,画面そのものの根底的な破壊にまで行きついてしまう。ここから,苦悩とは無縁の〈均衡のとれた,純粋で晴朗な芸術〉をめざした再出発が始まる。ゴーギャンから深く影響された平坦な色面構成と,簡潔ではあるが重厚な形態による装飾性は,セザンヌから吸収した構築的な空間感覚によって補強され,きわめて理知的でありながら音楽的でもある画面が登場してくる。このとき,《赤いハーモニー》(1909)にも明らかなように,奥行きは伝統的な遠近法によってではなく,色面と色面,事物と事物との関係によって表現され,それは記念碑的な大作《ダンス》(1909)を経て,《赤いアトリエ》《茄子のある静物》(ともに1911)の,実に巧妙な室内空間において頂点に達する。この間,名声も高まり,スタイン兄妹やロシアの大美術収集家シチューキンとモロゾフに作品を買い求められ,1910年にはベルネーム・ジューヌ画廊で最初の個展が開かれる。以後,世界的に抽象絵画の機運が高まるなかで,あくまでも具象的表現の可能性を追求した。17年以降,ニースに滞在するようになってから,〈オダリスク〉を中心にいかにもくつろいだ室内画を描くが,29年前後から画面は線描を主体にした単純なものになり,最晩年の40年ころ以降,人物から表情がほとんど消えてしまうなど,すべては本質的な形態と色彩に還元されてしまう。主要な関心は〈色彩でデッサンする〉切り絵に注がれ,油絵にはけっしてみられなかった有機的かつ抽象的な形が切り抜かれ,幾重にもはりつけられた重厚な作品が生みだされた(《エスカルゴ》1952,など)。とはいえ,晩年最大の仕事は,マティスの別荘があったバンスVenceの,ドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の装飾(1948-51)であったといえる。
絵画の本質的な課題--三次元のものを二次元で表現する--を極限まで問いつめたマティスは,1900年ころから彫刻もよくした。アフリカ黒人彫刻の影響が強いとはいえ,一連のレリーフ〈背中〉(1909-29)に顕著なように,そこには画家ならではのボリューム感覚がある。マティスはまた20世紀最大の素描家の一人であり,《マラルメ詩集》(1932),ジョイス《ユリシーズ》,《シャルル・ドルレアン詩集》(1950)等に線描主体の自在な挿絵をつけている。他には版画集《ジャズ》(1947)が有名。
執筆者:本江 邦夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報