柳橋村(読み)やぎはしむら

日本歴史地名大系 「柳橋村」の解説

柳橋村
やぎはしむら

[現在地名]総和町柳橋

下大野しもおおの東南に所在。東端を長井戸ながいど(現在は水田)東枝が南北に通り、西端を長井戸沼西枝が南北に通る。南北は台地上に続き、北部は平地林。八木橋とも記し、字柳橋やなぎはし弘法大師が行脚の折に小川を渡るため傍らにあった柳の木を八本切って橋にしたとの伝説がある。村域西部の字香取前かとりまえの香取前遺跡は古墳時代のもの。東方の字弁才天べんざいてんに古墳時代遺跡の弁才天A遺跡、製鉄跡の弁才天B遺跡が確認される。字砂久保すなくぼより板碑三基が出土し、一基は天文二〇年(一五五一)の銘を刻む。この頃の梅千代王丸足利義氏充行状写(豊前氏古文書抄)

<資料は省略されています>

とあり、葛生かずろうとともに豊前氏の支配を受けた。


柳橋村
やなぎばしむら

[現在地名]金沢市柳橋町

神谷内かみやち村の北に位置。北陸街道が通る。延得三年(一四九一)三月一二日、冷泉為広は浅野から「柳橋」を通ってシシバラ(吉原か)森本もりもとに至り、倶利伽羅くりから峠へ向かっている(越後下向日記)。天正八年(一五八〇)閏三月、能登福水ふくみず(現羽咋市)より金沢に向かった長安竜は、金沢から木越きごし攻めに向かう佐久間盛政軍と当地で出会い、引返して大浦おおうら口より木越を攻撃した(長家譜)。正保郷長によれば高二三二石余、田方一三町五反・畑方二町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二四五石、免五ツ九歩、小物成は山役七七匁(三箇国高物成帳)


柳橋村
やなぎばしむら

[現在地名]郡山市中田町柳橋なかたまちやなぎばし

木目沢このめざわ村の南東、阿武隈高地西麓の山間の村で、大小の峡谷中に集落がある。地内篠坂しのざかに延慶(一三〇八―一一)の紀年銘の石造供養塔、同所稲荷神社境内に正和元年(一三一二)銘の石造供養塔、観応(一三五〇―五二)銘の石造供養塔など五基がある。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「柳はし 一町」とみえ、同一一年七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)には「柳はし 一丁」とある。宝暦一〇年(一七六〇)の田畑并家数人数書上帳(佐久間家文書)によれば、田七〇八石余・畑三三五石余・新田八石余、免五ツ七分、家数一一九・人数五二七(男三〇四・女二二三)


柳橋村
やぎはしむら

[現在地名]谷田部町柳橋

新井あらい村西南、蓮沼はすぬま川東南岸に位置。江戸時代には旗本大久保氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には大久保録太郎の知行地で村高二〇五・四五七二石。真言宗神宮じんぐう寺・慈眼じげん院があったがいずれも廃寺。鹿島神社は一二月一五日を例祭日と定め、天文二三年(一五五四)柳橋氏の氏神として創建されたと伝える。

当村の草分百姓柳橋家は清和源氏土岐氏の出といい、柳橋豊前守は古河公方足利氏の麾下の将として柳橋(現猿島郡総和町)の館主であった。天文二三年に小山朝政の攻撃を受けて敗走し、狩間かりま城主で妹婿の野中瀬氏を頼って当地に来たが、狩間城落城により居住地を柳橋村と名付けて帰農したといわれる。


柳橋村
やなぎばしむら

[現在地名]飯塚市柳橋

遠賀おんが川の左岸に位置し、南はなか村、同川対岸は嘉麻かま鯰田なまずた村。南部を長崎街道が通る。小早川時代の指出前之帳では穂波ほなみ合屋おうや村のうちとして村名がみえる。慶長七年(一六〇二)の同郡柳橋村の検地高二七七石余、うち大豆九〇石余(慶長石高帳)。領主の変遷川津かわづ村に同じ。元禄五年(一六九二)には高三〇三石余・反別三〇町九反余、家数三三・人数一一八(田圃志)


柳橋村
やなぎばしむら

[現在地名]大網白里町柳橋

木崎きさき村の北東に位置し、北部を南白亀なばき川が流れ、南部を土気とけ往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に柳楊村(高一四四石)とあるのが当村をさすと思われる。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では上谷組に属する柳橋がみえ、旗本平岩領一四〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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