栃谷村
とちだにむら
[現在地名]浜坂町栃谷
岸田川を挟んで七釜村の対岸南西にある。村域は同川支流田君川の流域にも広がり、南西に三成山(五三六・二メートル)がそびえる。北は戸田村、南は竹田村(現温泉町)。本村集落は田君川の下流域、岸田川左岸低地の山裾に発達し、田君川中流域(田君谷)には谷・奥谷の集落がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「とち谷」とみえ、当地には「まこ大夫殿」が住していた。ほかに「たきミ谷」があり、同所には寺庵と思われる「てん屋う庵」があった。清富相応峰寺の過去帳の永禄一〇年(一五六七)分には「栃谷ノ二郎左衛門 逆修」とみえる。
栃谷村
とちたにむら
[現在地名]富山市栃谷
呉羽山丘陵と金山丘陵の間を北に向かって開く境野新扇状地の扇央部に位置する。南は杉谷村、東は古沢村。地名は沼沢地だった当地を開いた者が、食用に栃を植えたことに由来するという(婦負郡志)。天正一一年(一五八三)一二月一〇日の佐々成政宛行状(岐阜県小池家文書)によれば、婦負郡「とち谷村」のうち一〇〇俵などが小池弥七郎に与えられている。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領で、正保郷帳では高二二七石余、田方一三町五反余・畑方一町六反余。
栃谷村
とちだにむら
[現在地名]船岡町大江
下野村の南東に位置し、大江川と支流中谷川・紙屋谷川の三河川の合流点付近に集落がある。紙屋谷川に沿って南の智頭郡蘆津村(現智頭町)に通じる虫谷越と、中谷川に沿って南東の智頭郡八河谷村(現同上)に通じる八河谷越はともに難所で、往来はまれであったという。また大江川沿いに東へ山越えして八東郡三浦村(現八東町)、北へ越えて同郡志子部村へ通じる道もあった(因幡志)。
栃谷村
とちだにむら
[現在地名]久美浜町字栃谷
北流して久美浜村から久美浜湾に入る栃谷川中流に位置する。川の上流甲坂の集落は栃谷村の内である。甲坂から西の三谷村に通じる。
小字大ナルの古墳群など多くの古墳があり、小字祈祷谷の丘陵上に経塚がある。径約四メートル、高さ一・五メートルの封土の中に土製経筒があり、その中に銅製の筒と和鏡が納められていた。
中世末の丹後国御檀家帳に「久美の栃谷 家百弐拾斗」とあり、津か本三郎左衛門・田中与三左衛門・松岡彦治郎ほか五名が記される。近世に入ると慶長検地郷村帳に高五六二・二四石「栃谷村」とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で七八四石余となった(天和元年宮津領村高帳)。
栃谷村
とちやむら
[現在地名]秩父市栃谷
山田村の北に位置し、東は定峰村、北は三沢村(現皆野町)。川越秩父道が通る。かつて栃の木の多かったことが村名の起りと伝え、橡谷とも記した(風土記稿)。田園簿によれば高一三八石余、此永二七貫七六〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同藩領で幕末に至った。元禄郷帳では高二四七石余、寛文三年・同七年・同九年と新田検地が行われ、享保二〇年(一七三五)には定峰村入山続きの二四町二反余の地が開かれ高入れされている(風土記稿)。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田四町四反余・畑六四町五反余。
栃谷村
とちたにむら
[現在地名]福岡町栃丘
西明寺村の北に位置する山間村。上栃谷・下栃谷の二集落からなる。もとトチクダニに集落があったが、水害や地滑りによって現在地へ移ったと伝える(福岡町史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に栃谷とみえ役家数一二、三日市組に属した。正保郷帳では高二〇一石余、田方三町五反・畑方九町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一七三石、免六ツ二歩、小物成は山役一〇七匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。文政四年(一八二一)の宮島組七一ヵ村草高免付品々帳(杉野家文書)によれば、寛文九年土不足で三九石、貞享四年(一六八七)山崩れで四八石の検地引があり、草高一二五石、百姓数四三、うち他村からの懸作者二。
栃谷村
とつたにむら
[現在地名]吉川町水上
奥谷村の東に位置し、吉川川上流左岸の丘陵地に立地する。東は沖村、南は北大門村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は市野瀬村に同じ。正保郷帳では田方一二二石余・畑方四五石余。
栃谷村
とちだにむら
[現在地名]飯高町栃谷
木梶村の南東、木梶川の支流栃谷川に沿う。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)には「舟戸木梶栃谷村」として現れ、元禄一五年(一七〇二)新田畑午改帳(同蔵)には「栃谷村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)には「田方無御座候」と記され、山間部の村の特徴を示している。
栃谷村
とちだにむら
[現在地名]上石津町西山
岩須村の南に位置する。臼井本元禄郷帳に村名がみえ、高七五石で幕府領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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