栗崎道喜(読み)くりさきどうき

改訂新版 世界大百科事典 「栗崎道喜」の意味・わかりやすい解説

栗崎道喜 (くりさきどうき)
生没年:1582-1651(天正10-慶安4)

江戸前期の洋方外科医。名は正元肥後国出身。幼時長崎移住,のち南蛮人に伴われて南蛮国フィリピン?)に渡り外科術を修得して長崎に帰って栗崎流外科開祖となった。長男正勝は2代道喜を名乗り越前福井)藩に召され,四男正家(道有)が栗崎家3代を継ぎ長崎に住み,それぞれ栗崎流外科を発展させ,その門流は金創を得意とし,各藩に召されて南蛮流外科の有力な学派となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「栗崎道喜」の意味・わかりやすい解説

栗崎道喜
くりさきどうき
(1582―1651)

江戸時代の外科医、南蛮外科栗崎流の開祖。肥後国(熊本県)栗崎村の生まれ。幼名歌之助、のち正元。幼いとき乱にあい、乳母(うば)に連れられて長崎へ逃れ、さらに外国船でルソンに渡り、そこで医を志して外国人医師から外科を学び、30歳をやや過ぎてから帰国。携えて帰った洋書のすべては奉行(ぶぎょう)所に没収されたが、長崎市内に宅地を与えられ、奉行所関係者や外国人たちの診療にあたった。彼の著として伝えられている『南蛮流金創本末撰奇』のなかに、おそらく直接観察したと思われる心臓の記載があり、日本人のそれとしてはもっとも早い。道喜の孫正羽(まさゆき)(1660―1726)は幕府医官となり、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の負傷治療にあたった。

中川米造

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朝日日本歴史人物事典 「栗崎道喜」の解説

栗崎道喜(初代)

没年:慶安4.12.30(1652.2.9)
生年:天正10?(1582)
江戸前期の外科医。肥後国栗崎村(宇土市栗崎町)生まれ。幼名は歌之助,名は正元。幼くして長崎に出,南蛮人によって海外(マカオともルソンともいわれる)に連れ去られ外科術を修得。のち帰国して長崎で医業を開き,南蛮外科栗崎流の開祖となった。伝記には諸説があるが,帰国に際して官辺に日本素性を立証するために「高砂」の謡の一節をうたったなどの逸話が伝わる。長崎で没し,寺町東林山深崇寺に葬られた。長子の正勝(1622~98)が2代道喜を襲名,越前(福井)藩に仕えた。<参考文献>竹内真一「南蛮外科栗崎家系譜と越前栗崎家」(『若越郷土研究』14巻2号)

(宗田一)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栗崎道喜」の解説

栗崎道喜(初代) くりさき-どうき

1568-1652* 織豊-江戸時代前期の医師。
永禄(えいろく)11年生まれ。肥後(熊本県)の人。長崎からフィリピンのルソン島にわたり外科をまなぶ。慶長のはじめに帰国し長崎で開業,栗崎流南蛮外科の祖となる。金瘡(きんそう)(切り傷)治療で知られた。慶安4年12月30日死去。84歳。名は正元。著作に「瘍医秘訣」など。

栗崎道喜(2代) くりさき-どうき

1622-1698 江戸時代前期の医師。
元和(げんな)8年生まれ。初代栗崎道喜の長男。父にまなび,父が口述した外科の奥義をまとめる。寛文6年(1666)越前(えちぜん)福井藩主松平光通につかえ,同藩に栗崎流南蛮外科をつたえた。元禄(げんろく)11年7月24日死去。77歳。肥前長崎出身。名は正勝。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「栗崎道喜」の意味・わかりやすい解説

栗崎道喜
くりさきどうき

[生]弘仁9(1566).肥後,栗崎
[没]慶安4(1651)
江戸時代初期の医師。名は正元。南蛮外科栗崎流の始祖。9歳のときマカオに渡り,20年あまり滞在。その間,14歳から外科医術を学び開業,慶長の終り頃に帰国し,長崎奉行から軍用金創療法伝授の家,栗崎流を称することを許されて宅地を与えられた。

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