桂‐タフト協定(読み)かつらたふときょうてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂‐タフト協定」の意味・わかりやすい解説

桂‐タフト協定
かつらたふときょうてい

1905年(明治38)7月29日、東京で桂太郎首相とアメリカのタフト陸軍長官との会談で成立した、日露戦争後の韓国(大韓帝国)とフィリピンに関する協定。この会談で、桂はフィリピンに野心をもたぬと確認し、タフトは韓国における日本の保護権の確立が「東洋の平和」に貢献すると認めた。この会談の覚書noteはルーズベルト大統領の追認を得たので、英文では協定と通称されているが、協定としての国際的拘束力をもつかどうかは疑問がある。日本外務省は「桂‐タフト諒解(りょうかい)」と称している。当時は秘密にされ、公表されたのは1924年(大正13)である。日本は、この協定と第二次日英同盟で、韓国保護権の設定について英米の承認を取り付けたとして、同年(1905)11月、乙巳(いっし)保護条約を韓国に強制した。

藤村道生

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂‐タフト協定」の意味・わかりやすい解説

桂=タフト協定
かつら=タフトきょうてい
Taft-Katsura Memorandum

1905年7月 29日,東京で桂太郎首相とアメリカ大統領特使 W.タフト陸軍長官との間で取りかわされた秘密覚え書。内容は,(1) 日本はアメリカのフィリピン統治を認め,フィリピンに対して侵略的意図をもたない,(2) 極東の平和維持は,日本,アメリカ,イギリス3国間の合意に基づいてはかられるべきこと,(3) アメリカは朝鮮に対する日本の優越支配を承認する,の3点を骨子とした。台湾足場にフィリピンに対する日本の南下を危惧するアメリカと,日露戦争後の朝鮮支配を列国に認めさせたい日本の思惑が重なって成立した。

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