新撰 芸能人物事典 明治~平成 「桂文団治」の解説
桂 文団治(4代目)
カツラ ブンダンジ
- 職業
- 落語家
- 肩書
- 上方落語協会顧問
- 本名
- 水野 音吉
- 別名
- 前名=桂 麦団治,三笑亭 小芝(2代目),三升 紋兵衛,別名=杉山 文山
- 生年月日
- 明治11年 8月6日
- 出生地
- 京都府 京都市
- 経歴
- 明治27年2代目桂米団治に入門、麦団治を名乗る。その後、初代三笑亭芝楽(のち桂文光)門で2代目三笑亭小芝、初代三升紋弥(のち三升家紋右衛門)身内として三升紋兵衛を名乗るが、再び麦団治に戻る。大正10年当時住んでいた森之宮杉山町にちなんだ杉山文山の変名で講談師に転じ、旅巡業で“軍事講談”を演じて人気を博したが、それ以外では桂麦団治の名で落語を演じた。また“霊狐術”と称する“取り寄せ”や“新粉細工”なども行った。若い頃から旅巡業が多く、三升紋兵衛の名で一座の頭取を務め、台湾まで足を延ばしている。昭和24年4代目桂文団治を襲名。熱心な天理教信者で、“ゴジラ”とあだ名された。生涯喘息の持病に苦しみながらも老年になるまで高座をつとめ、初代桂春団治と同年同輩の上方落語の重鎮として重きをなした。
- 没年月日
- 昭和37年 12月14日 (1962年)
- 家族
- 息子=曽我廼家 勢蝶
桂 文団治(3代目)
カツラ ブンダンジ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 前田 七三郎
- 別名
- 初名=立川 三吉,前名=林家 菊松,桂 米朝(初代),桂 米団治(2代目)
- 生年月日
- 安政4年
- 出生地
- 大坂・炭屋町(大阪府)
- 経歴
- 住友の分家大坂屋儀兵衛の一人息子との説もあるが定かではない。奉公に出るが16歳の頃から放蕩。初め2代目立川三玉斎の門人となり三吉と名乗る。明治13年三玉斎の没後、京都で3代目林家菊枝の弟子になり菊松と改名。のち初代桂文団治に入門。初代桂米朝と名乗るが女道楽が過ぎて兄弟子桂米団治に預けられ、以後米団治を師とたのむ。18年順朝、20年2代目桂米団治を襲名。のち真打昇進。41年11月3代目桂文団治襲名。「かまど幽霊」「不動坊火焔」などの幽霊のでる噺を得意とした。芸風は艶があって定評があり、ほかに「鴻池の犬」「鹿政談」などを好んで演じた。大正12年5月南地花月で「泣塩」を演じたのが最後の高座となった。
- 没年月日
- 大正13年 4月9日 (1924年)
桂 文団治(初代)
カツラ ブンダンジ
- 職業
- 落語家
- 本名
- 鈴木 清七
- 生年月日
- 天保14年
- 経歴
- 素人連で米丸の名で高座に上がり、半面を付けて三味線を弾き人気を取ったと云われる。のちに初代桂文枝に入門、文団治と改める。文枝門下の四天王の一人として名をあげ「三枚起請」「妾通い」など色っぽい物を得意とした。しかし、気が荒く、強調性にも欠ける性格で、明治12年頃四天王から脱して独立。その後高弟の初代桂米団治に去られたりしたが、最後まで独立を通して人気を保った。目の窪んだ風貌から塩鯛とあだ名され、落語ばかりでなく商才にも長け、貸車屋や茶店を出すほか平野町御霊社内に自席をも営むやり手だったが、19年の夏、大阪に蔓延したコレラにかかり早世した。
- 没年月日
- 明治19年 9月14日 (1886年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報