桂田富士郎(読み)カツラダフジロウ

デジタル大辞泉 「桂田富士郎」の意味・読み・例文・類語

かつらだ‐ふじろう〔‐ふじラウ〕【桂田富士郎】

[1867~1946]病理学者石川の生まれ。ドイツ留学日本住血吸虫発見

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精選版 日本国語大辞典 「桂田富士郎」の意味・読み・例文・類語

かつらだ‐ふじろう【桂田富士郎】

  1. 医学者。医学博士理学博士石川県に生まれる。石川県立医学校卒。日本住血吸虫の発見者。学士院賞受賞。慶応三~昭和二一年(一八六七‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂田富士郎」の意味・わかりやすい解説

桂田富士郎
かつらだふじろう
(1867―1946)

病理学者。加賀大聖寺(石川県加賀市)の生まれ。1887年(明治20)石川県立医学校を卒業、同年、帝国大学医科大学病理学教室研究生となる。1890年、岡山の第三高等中学医学部(後の岡山医学専門学校、岡山大学医学部の前身教授となり、病理学講座を担当した。ここで当時、同地方に蔓延(まんえん)していたジストマ病の研究を始めた。1899年ドイツに留学し、フライブルク大学アショフに師事、帰国後、1902年(明治35)医学博士となる。1904年日本住血吸虫を発見し、以後、同病の原因や予防法を研究した。1912年岡山医学専門学校を退き、1913年(大正2)ロンドンで開かれた万国医学会会議に出席、1914年神戸市に設けられた摂津(せっつ)病院と船員熱帯病研究所の主宰者となった。1918年、京都帝国大学の藤浪鑑(ふじなみあきら)とともに「日本住血吸虫の研究」により帝国学士院賞を受賞。第二次世界大戦で病院や研究所が焼失してのちは郷里で研究を続けた。

[大鳥蘭三郎]

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20世紀日本人名事典 「桂田富士郎」の解説

桂田 富士郎
カツラダ フジロウ

明治〜昭和期の病理学者 熱帯病船員病研究所所長。



生年
慶応3年5月5日(1867年)

没年
昭和21(1946)年4月5日

出生地
加賀国大聖寺町(石川県加賀市)

旧姓(旧名)
庄田

別名
幼名=幸吉

学歴〔年〕
石川県立金沢医学校(現・金沢大学)〔明治20年〕卒

学位〔年〕
医学博士〔明治35年〕,理学博士〔大正3年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞〔大正7年〕

経歴
ドイツに留学。明治23年岡山に新設の第三高等学校医学部講師となり、病理学、法医学を担当、26年教授となり学校は岡山医学専門学校に昇格。37年地方病解明のため滞在していた山梨県で、ネコの門脈から世界初の住血吸虫体を発見し、“日本住血吸虫”と命名した。大正元年退職し、神戸に熱帯病船員病研究所及び附属病院を設立、所長、院長となった。7年「日本住血吸虫病の研究」で学士院賞を受賞。20年研究所、病院が戦災に遭い郷里に帰って開業した。

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改訂新版 世界大百科事典 「桂田富士郎」の意味・わかりやすい解説

桂田富士郎 (かつらだふじろう)
生没年:1867-1946(慶応3-昭和21)

病理学者。加賀国大聖寺(現,石川県加賀市)に生まれ,1887年桂田家を継ぐ。同年金沢医学校を卒業し上京,帝国大学医科大学病理学教室に入り,三浦守治に師事。90年岡山の第三高等中学医学部(岡山大医学部の前身)に赴任。病理学,法医学を担当した。当時岡山地方にまんえんしていたジストマ病が注目され,東京から山極勝三郎,井上善次郎が調査のため出張し,桂田も全力をあげ研究にとり組んだ。1904年ニホンジュウケツキュウチュウ(日本住血吸虫)を発見。藤浪鑑(ふじなみあきら)とともに同病の原因,本態,発生ならびに予防法の解明にあたり,経膚感染を証明した。12年岡山医専に紛争が起こり,校長桂田は辞職した。欧州遊学ののち,14年神戸に船員病及熱帯病研究所を設立。18年〈日本住血吸虫病ニ関スル研究〉に対して藤浪とともに学士院賞が授与された。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「桂田富士郎」の解説

桂田富士郎

没年:昭和21.4.5(1946)
生年:慶応3.5.5(1867.6.7)
明治大正期の医学者。加賀国大聖寺藩(石川県加賀市)生まれ。本名は庄田幸吉,のち養子となり桂田富士郎と改名。明治20(1887)年石川県立金沢医学校(金沢大)卒業後,帝大医科大(東大)三浦守治教授の下で病理学を専攻。23年から大正1(1912)年まで岡山医専(岡山大)で病理学を担当。明治37年山梨県の地方病解明のため同県に滞在し,猫の肝臓から新種の寄生虫を発見,日本住血吸虫と命名し,のち帝国学士院賞を受賞した。後半生は神戸に研究所を設立し,私財を投じて財団をつくり船員および熱帯病の治療に情熱を傾けた。寄生虫病学奨励会には現在,「桂田賞」が設けられている。<参考文献>森下薫『ある医学史の周辺』,吉村裕之『病原体を追った人びと』

(網野豊)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂田富士郎」の意味・わかりやすい解説

桂田富士郎
かつらだふじろう

[生]慶応3(1867).5.5. 石川,大聖寺
[没]1946.4.5. 石川
医学者。庄田豊哉の長男として生れ,のちに桂田家を継ぐ。 1887年金沢医学校を卒業後,東京大学の病理学教室に入り,90年岡山の第三高等中学校医学部講師として赴任。 93年教授となる。 1904年ネコの肝臓で日本住血吸虫を発見,その名をつけた。その功績により 18年帝国学士院賞受賞。同年,財団法人船員病及熱帯病学奨励会を設立し,この分野で行われた優秀な研究に対して賞を授与した。これが第2次世界大戦後に桂田賞となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桂田富士郎」の解説

桂田富士郎 かつらだ-ふじろう

1867-1946 明治-昭和時代前期の病理学者。
慶応3年5月5日生まれ。明治26年岡山医専(現岡山大医学部)教授となる。37年(1904)日本住血吸虫を発見し,大正7年藤浪鑑(ふじなみ-あきら)とともに学士院賞を受賞。のち神戸に熱帯病船員病研究所および付属病院を設立,所長兼院長となった。昭和21年4月5日死去。80歳。加賀(石川県)出身。金沢医学校(金沢大医学部の前身)卒。旧姓は庄田。

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百科事典マイペディア 「桂田富士郎」の意味・わかりやすい解説

桂田富士郎【かつらだふじろう】

医学者。石川県の生れ。1887年石川県立医学校卒。東大病理学教室で研究,1890年第三高等中学(現岡山大)医学部教授となり,同地方のジストマ病の調査・研究を続け,1904年ニホンジュウケツキュウチュウを発見。

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367日誕生日大事典 「桂田富士郎」の解説

桂田 富士郎 (かつらだ ふじろう)

生年月日:1867年5月5日
明治時代-昭和時代の病理学者
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の桂田富士郎の言及

【ニホンジュウケツキュウチュウ(日本住血吸虫)】より

…扁形動物吸虫綱住血吸虫科Schistosomatidaeに属する寄生虫。1904年桂田富士郎が山梨県大鎌田村(現,甲府市)で飼育されていたネコの門脈から1雄虫を発見したのが世界最初のものである。しかし,1973年,74年に発掘された中国の馬王堆漢墓から出土したミイラ(2100年前に死亡したと推定される貴婦人の遺体であるという)の肝臓からこのキュウチュウの虫卵が発見されており,古くからこの寄生虫がアジア地域に蔓延(まんえん)していたものと考えられる。…

※「桂田富士郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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