桝形城跡
ますがたじようあと
[現在地名]鏡野町香々美
標高六四五・二メートルの桝形山山頂にあり、鏡野町の平野部はもとより津山盆地を一望におさめ、伯耆往来を足下に押える要衝の地にある。「作陽誌」や「東作誌」には升形城とみえる。「作陽誌」によれば小早川隆景が修築し、福田玄蕃勝昌・同助四郎盛昌らにこれを守らせたという。また同書の円通寺の項に永禄年中(一五五八―七〇)福田玄蕃が桝形城を守るにあたり円通寺を外衛としたため、城の陥落とともに寺も焼失したと伝える。
桝形城主福田氏について「東作誌」の上横野村(現津山市)の項に経緯がみえる。すなわち福田盛昌は備後国葦田郡福田村相方(現広島県福山市)の城主であったが、のち美作に進出して勝北郡宮内村(現勝田郡勝北町)の細尾城主となり、さらに上横野村の利元城に入り、天文一三年(一五四四)尼子晴久に従う。
桝形城跡
ますがたじようあと
[現在地名]多摩区枡形六―七丁目
多摩川を望む多摩丘陵の東端にあり、市立日本民家園の北側丘陵上の現在の枡形山公園一帯に広がる。一帯は鎌倉幕府の御家人稲毛重成の本拠地とされ、北側にある広福寺は重成の館跡と伝える。しかし遺構から築造の時期は室町時代と思われる。「宗長手記」には永正元年(一五〇四)の扇谷上杉氏と山内上杉氏の合戦の際、山内上杉氏方にくみした北条早雲の軍勢が府中立河原(現東京都)の合戦の前、九月二〇日―二二日の間、武州「益形」に着陣したとある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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