日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊奈氏」の意味・わかりやすい解説
伊奈氏
いなうじ
徳川氏の家臣、関東郡代家。先祖は戸賀崎(とがさき)、荒川の姓を称したが、荒川易氏(やすうじ)のとき、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)より信濃国(しなののくに)(長野県)伊那郡の一部を与えられて定住。孫易次(やすつぐ)のとき居城を叔父に横領されて伊那を去り、それより伊奈熊蔵(くまぞう)を名のった。この子孫の一人忠家(ただいえ)は放浪して三河国に至り、徳川家康に仕え、幡豆(はず)郡小島(おじま)(愛知県西尾市)の城主に任ぜられたが、ふたたび堺(さかい)に放浪した。その子忠次(ただつぐ)は家康の関東入国に従い、代官頭(がしら)となり、武蔵国(むさしのくに)小室(こむろ)(埼玉県伊奈町)に陣屋を置いた。所領は小室、鴻巣(こうのす)1万石。3代忠勝(ただかつ)のとき嗣子(しし)なく改易に処せられたが、忠勝の弟忠隆(ただたか)が小室郷のうち新知1100余石を与えられて名跡を継いだ。一方、忠次の次男忠治(ただはる)は7000余石を知行(ちぎょう)して別家を創設、足立(あだち)郡赤山(埼玉県川口市)に陣屋を設け、父と同じく関東の民政、農政に活躍、関東郡代を世襲で務める伊奈家の基を開いた。その子忠克(ただかつ)は弟2人に遺領のうちを分知して3960石の旗本に定着、忠常(ただつね)、忠篤(ただあつ)、忠順(ただのぶ)、忠逵(ただみち)、忠辰(ただとき)、忠宥(ただおき)(勘定奉行)、忠敬(ただひろ)と続いたが、忠尊(ただたか)の代にさまざまな不埒(ふらち)を犯したとして1792年(寛政4)3月、関東郡代を罷免され改易に処せられた。しかし幕府は忠治家の滅亡を惜しみ、別家の忠盈(ただみつ)に新知1000石を与えて名跡を継がせた。この間伊奈氏は、河川の修治や新田の開発、富士山噴火被災地の復旧、本所、深川市街地の造成、農民騒動の鎮撫(ちんぶ)や打毀(うちこわし)騒動の収拾など、多大な功績を残した。
こうした関東郡代伊奈氏の機能は、幕府職制による勘定奉行支配の枠組みから逸脱することが多かったため、忠逵の代からは勘定吟味役の上首、奥右筆(おくゆうひつ)組頭の次席、御小姓組(おこしょうぐみ)番頭などの身分が付され、老中支配のもとに国政にかかわる事業が執行された。ちなみに、伊奈郡代の家臣は400名を数えたが、伊奈家には忠治が開発した数十万石からあがる年貢の10分の1が付与されており、数万石の大名と等しい財政基盤をもっていた。このほか伊奈氏には、改易になった家のほか、幕末まで続いた別家が3家ある。
[本間清利]
『本間清利著『関東郡代』(1977・埼玉新聞社)』