日本大百科全書(ニッポニカ) 「森寛斎」の意味・わかりやすい解説
森寛斎
もりかんさい
(1814―1894)
幕末から明治の日本画家。長州藩士石田伝内の三男として萩(はぎ)(山口県)に生まれる。名は公粛、字(あざな)は子容。12歳で太田田竜に入門、桃蹊(とうけい)と号した。22歳で大坂に出、円山(まるやま)派の森徹山(てつざん)(1775―1841)に師事し、25歳のとき徹山に認められてその養子となり、森姓を継いだ。維新後に多くの博覧会や共進会で名声を高め、塩川文麟(ぶんりん)(1808―77)の没後は、京都画壇の中心として如雲社を主宰した。1890年(明治23)に、橋本雅邦(がほう)らと第1回帝室技芸員に任ぜられている。江戸時代の円山派の写生画法を明治に伝えるとともに、それに文人画の情趣的感覚を加えた作風を特色とする。門下から野村文挙(ぶんきょ)(1854―1911)、山元春挙(やまもとしゅんきょ)らが出た。
[玉蟲玲子]