楢林鎮山
ならばやしちんざん
(1648―1711)
江戸中期のオランダ通詞。楢林流外科の開祖。長崎生まれ。名は時敏・春育、通称は彦四郎・新右衛門・新五(吾)兵衛。剃髪(ていはつ)して栄休と名のる。号は鎮山・得生軒。1656年(明暦2)からオランダ語を学び始め、1666年(寛文6)小通詞、1686年(貞享3)大通詞に栄進。商館医ホフマンWillem HoffmanからパレAmbroise Paréの外科書(1649年刊のオランダ語訳)を贈られて翻訳に着手、漢方医学知識のほか自家症例を加えて1706年(宝永3)『紅夷外科宗伝』(同年9月貝原益軒序)を完成している。紅毛外科を学び、1692年(元禄5)通詞職を子栄理に譲り、外科を業とした。1698年オランダ人に加担したとの理由で閉門。退職後栄休と称し医学に専念した。将軍徳川綱吉(つなよし)から御典医に召されたが固辞、筑前(ちくぜん)の黒田綱政(1659―1711)からの再三の招きも固辞した。去来らと俳諧(はいかい)を楽しみ陀方と号した。1915年(大正4)正五位を贈られた。
[末中哲夫]
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楢林鎮山 (ならばやしちんざん)
生没年:1648-1711(慶安1-宝永8)
江戸中期の通詞系医家。楢林流外科の開祖。長崎に生まれる。名は時敏,のち栄休,通称は彦四郎,新右衛門,新五(吾)兵衛。得生軒とも号した。オランダ大通詞にまで昇進したが医学に転身,1692年(元禄5)通詞職を嫡子栄理(量右衛門)に譲り,外科をもって医業を開き多くの門生を教育した。将軍綱吉や筑前黒田侯からの招きにも応ぜず在野の医業をつらぬいた。著書にフランス人A.パレの外科書の蘭訳本(1649)をもとに蘭館医ホフマンほかから学んだ知識を加えて編述した《紅夷外科宗伝》がある。
執筆者:宗田 一
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楢林鎮山
没年:正徳1.3.29(1711.5.16)
生年:慶安1.12.14(1648.1.26)
江戸前期の阿蘭陀通詞,初期紅毛流外科医。楢林流外科の祖。名は時敏,剃髪して栄休。通称新右衛門,新五兵衛。長崎生まれ。通詞のかたわら,長崎出島のオランダ商館医ホフマンらから医術を学び,楢林流外科の開祖となる。フランスの外科医パレの『外科全集』およびドイツの外科医シュルテス(スクレテタス)の『外科の兵器庫』の蘭訳本などを参考にして『紅夷外科宗伝』を著した。図版入りで西洋外科を視覚的に紹介した最初の著書である。序文を貝原益軒が宝永3(1706)年に書いている。将軍徳川綱吉,福岡藩主黒田綱政らからの再三の招請があったが固辞して応じなかった。<参考文献>古賀十二郎『西洋医術伝来史』,蒲原宏「日本へのパレ外科全集骨関節損傷治療の受容についての再検討」(アンブロアズ・パレ没後400年祭記念実行委員会編『日本近代外科の源流』)
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楢林鎮山【ならばやしちんざん】
江戸時代の通詞,医者。名は時敏。通称新吾(五)兵衛(しんごべえ)。長崎の生れ。9歳でオランダ語を習い,オランダ大通詞にまで昇進した。この間フランスの外科医パレの著した外科書オランダ語訳を熟読,のち通詞職を嫡子栄理(えいり)(量右衛門)に譲り,医師に転身した。彼の医業はオランダ流の外科(紅毛外科)で,多くの子弟を教授し,その医術は楢林流と呼ばれた。主著にパレの外科書をもとに蘭館医ホフマンから学んだ知識を加えて編述した《紅夷外科宗伝(こういげかそうでん)》がある。
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楢林鎮山
ならばやしちんざん
[生]慶安1(1648).12.14. 長崎
[没]宝永8(1711).3.29. 長崎
江戸時代初期の蘭方医。楢林流外科の始祖。9歳よりオランダ人と交わってオランダ語を修め,19歳で小通詞となる。貞享3 (1686) 年大通詞となったが,この間,フランスの外科医 A.パレ著『外科技術書』のオランダ語訳書を入手した。またオランダの医師ダニエル・ブッシュらについて外科医術を学ぶ。同 11 (98) 年,ゆえあって閉戸を命じられ,職を辞したうえ剃髪して,名を栄休と改めて外科医術に専念し,楢林流外科を興した。宝永3 (1706) 年,パレの外科書をもとに『紅夷外科宗伝』を著わした。同5年,将軍徳川綱吉らが医官として招いたが応じず,医業に励んだ。
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楢林鎮山 ならばやし-ちんざん
1649*-1711 江戸時代前期-中期のオランダ通詞,蘭方医。
慶安元年12月14日生まれ。貞享(じょうきょう)3年大通詞。オランダ商館付医師のホフマンらにまなび,元禄(げんろく)5年開業した。フランスの外科医パレの外科書のオランダ語訳本をもとに「紅夷外科宗伝」をまとめた。宝永8年3月29日死去。64歳。肥前長崎出身。名は時敏。通称は新五(吾)兵衛など。別号に栄休,得生軒。
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楢林鎮山 (ならばやしちんざん)
生年月日:1648年12月14日
江戸時代前期;中期のオランダ通詞;紅毛流外科医
1711年没
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世界大百科事典(旧版)内の楢林鎮山の言及
【医学】より
…当初,通訳官(通詞)以外にはオランダ語を研究することは禁じられていたので,それらの通訳官が,オランダ流医学,つまり蘭方医の開祖となった。外科にすぐれていたといわれる[西玄甫](にしげんぽ),西洋解剖図譜《和蘭全軀内外分合図》をつくった本木了意,A.パレの外科書をもとに《紅夷外科宗伝》を著した[楢林鎮山](ならばやしちんざん)らは通詞である。徳川8代将軍吉宗の治政に殖産振興・実学尊重の政策がとられ,その一環として実学に関するオランダ語の研究が解禁された。…
【紅夷外科宗伝】より
…[楢林鎮山](ならばやしちんざん)(栄休)が編纂(へんさん)した洋方外科書(未刊)。フランスのA.パレの外科全書の蘭訳本をもとに中国系外科書の構成を採り入れ,また他の蘭書あるいは長崎出島蘭館医ホフマンの口授を加味している。…
【フランス】より
…フランスの学問もオランダ訳で伝わった。オランダ通詞で医者の楢林鎮山(栄休)は[A.パレ]の《外科学》をオランダ訳で入手,穿顔術,下肢切断術,血管結紮などを知り自著で広めた。1787年(天明7)にはショメル神父Noël Chomel(1633‐1712)の《百科辞典Dictionnaire universel》のオランダ語版が,オランダ商館長ティチングから楢林重兵衛に贈られた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」