樗良(読み)チョラ

デジタル大辞泉 「樗良」の意味・読み・例文・類語

ちょら【樗良】

三浦樗良みうらちょら

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精選版 日本国語大辞典 「樗良」の意味・読み・例文・類語

ちょら【樗良】

  1. 江戸中期の俳人鳥羽の生まれ。本名、三浦元克。字は冬卿。通称勘兵衛。別号無為庵など。俳諧を百雄(ひゃくゆう)に学ぶ。蕪村一派とも交わり俳壇の重要な位置を占めた。句には和歌の影響がみられる。編著「白頭鴉(しらがからす)」「我庵(わがいお)」など。句集に「樗良発句集」がある。享保一四~安永九年(一七二九‐八〇

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改訂新版 世界大百科事典 「樗良」の意味・わかりやすい解説

樗良 (ちょら)
生没年:1729-80(享保14-安永9)

江戸中期の俳人。姓は三浦,名は元克。別に無為庵などと号する。志摩国鳥羽の人。はじめ貞門系の百雄に学んだが,次第に伊勢派に近づき,伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。1759年(宝暦9)南紀に旅して《白頭鴉(しらががらす)》を編み,60年加賀,61年は再び南紀に在って《ふたまた川》を編した。62年には伊勢山田に庵を結び,門下を擁して《我庵》(1767)に自風の確立を示す。既白,闌更らと往来し合い,71年(明和8)にも信濃から加越を巡って《石をあるじ》を編み,翌年は播磨青蘿を訪ねた。73年(安永2)からはたびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり,76年には京に定住の居を得る。加越にはその後も再三旅して俳圏を広げ,京近辺にも門人を増やし,中興諸家と交流してその運動の一端を担った(天明俳諧)。性格は放縦の一面純心素朴で,句は平淡ながら自然を深く詠みとって微妙に香気を放つ。和歌の〈あはれ〉に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性とみずみずしい情感は,蕪村一派の共感を得た。編書はそのほかにも多く,《樗良七書》また《樗良七部集》が編まれた。句文は《樗良発句集》《樗良文集》に収まる。〈あらし吹草の中よりけふの月〉(《我庵》)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「樗良」の意味・わかりやすい解説

樗良
ちょら
(1729―1780)

江戸中期の俳人。本名三浦元克(もとかつ)、通称勘兵衛、別号に無為庵(むいあん)など。志摩国(三重県)鳥羽(とば)の生まれ。俳諧(はいかい)は紀州長島(現三重県紀北町)の百雄(ひゃくゆう)に学び、34歳のときには伊勢山田(いせやまだ)に無為庵を結んで俳諧撰集(はいかいせんしゅう)『我庵(わがいお)』を編んだ。その後、紀伊、江戸、北越、京都など各地を転々としつつ、蕪村(ぶそん)、青蘿(せいら)、暁台(きょうたい)、闌更(らんこう)らと風交を重ね、華々しい活動をみせた。世事にかかわらず、功利に超越した人物で、その恬淡(てんたん)・奔放な性格が世人の反感を買うところもあったらしい。作風はその人柄を反映して、平明だが詩韻に富み、また和歌的な「あはれ」を体得している。編著に『白頭鴉(しらががらす)』『月の夜』、また『樗良発句集』などがある。伊勢に没し、墓は山田の寿巌院にある。

[堀切 實]

 心地よや扇投げこむ淵(ふち)の色

『島居清著「三浦樗良」(『俳句講座3』所収・1959・明治書院)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「樗良」の解説

樗良 ちょら

三浦樗良(みうら-ちょら)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「樗良」の意味・わかりやすい解説

樗良
ちょら

三浦樗良」のページをご覧ください。

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