江戸中期の俳人。姓は三浦,名は元克。別に無為庵などと号する。志摩国鳥羽の人。はじめ貞門系の百雄に学んだが,次第に伊勢派に近づき,伊勢笠付(かさづけ)の点業にも携わった。1759年(宝暦9)南紀に旅して《白頭鴉(しらががらす)》を編み,60年加賀,61年は再び南紀に在って《ふたまた川》を編した。62年には伊勢山田に庵を結び,門下を擁して《我庵》(1767)に自風の確立を示す。既白,闌更らと往来し合い,71年(明和8)にも信濃から加越を巡って《石をあるじ》を編み,翌年は播磨に青蘿を訪ねた。73年(安永2)からはたびたび上洛して蕪村一派と親しく交わり,76年には京に定住の居を得る。加越にはその後も再三旅して俳圏を広げ,京近辺にも門人を増やし,中興諸家と交流してその運動の一端を担った(天明俳諧)。性格は放縦の一面純心素朴で,句は平淡ながら自然を深く詠みとって微妙に香気を放つ。和歌の〈あはれ〉に心を寄せ,詩人風の繊細な感受性とみずみずしい情感は,蕪村一派の共感を得た。編書はそのほかにも多く,《樗良七書》また《樗良七部集》が編まれた。句文は《樗良発句集》《樗良文集》に収まる。〈あらし吹草の中よりけふの月〉(《我庵》)。
執筆者:田中 道雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期の俳人。本名三浦元克(もとかつ)、通称勘兵衛、別号に無為庵(むいあん)など。志摩国(三重県)鳥羽(とば)の生まれ。俳諧(はいかい)は紀州長島(現三重県紀北町)の百雄(ひゃくゆう)に学び、34歳のときには伊勢山田(いせやまだ)に無為庵を結んで俳諧撰集(はいかいせんしゅう)『我庵(わがいお)』を編んだ。その後、紀伊、江戸、北越、京都など各地を転々としつつ、蕪村(ぶそん)、青蘿(せいら)、暁台(きょうたい)、闌更(らんこう)らと風交を重ね、華々しい活動をみせた。世事にかかわらず、功利に超越した人物で、その恬淡(てんたん)・奔放な性格が世人の反感を買うところもあったらしい。作風はその人柄を反映して、平明だが詩韻に富み、また和歌的な「あはれ」を体得している。編著に『白頭鴉(しらががらす)』『月の夜』、また『樗良発句集』などがある。伊勢に没し、墓は山田の寿巌院にある。
[堀切 實]
心地よや扇投げこむ淵(ふち)の色
『島居清著「三浦樗良」(『俳句講座3』所収・1959・明治書院)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新