横尾村(読み)よこおむら

日本歴史地名大系 「横尾村」の解説

横尾村
よこおむら

[現在地名]鴨川市横尾

大川面おおかわづら村の西、寺門てらかど村の北に位置し、加茂かも川の上流域に立地する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高七八七石余(うち田方五九五石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では七八一石余が同氏直轄領であるが、ほかに北風原ならいはら村の安国寺領四石・長慶ちようけい(現廃寺)領二石がある。元和二年(一六一六)北風原村が分村している(横尾区有文書)正保郷帳では高三六二石余、うち田方二五五石余・畑方一〇七石余、旗本内藤領。延宝五年(一六七七)までの領主の変遷は寺門村に同じ。同九年分郷され、一六〇石が幕府領として新横尾村と称し、二〇三石余が旗本向坂領となり古横尾こよこお村と称した(鴨川市史)。元禄一五年(一七〇二)幕府領は旗本酒井領となる。元文村高帳では高三六五石余、酒井領一六〇石・向坂領二〇三石余・安国寺領二石余となっている。


横尾村
よこおむら

[現在地名]引佐町横尾

神宮寺じんぐうじ川下流域、りゆう山南東麓に位置し、東は井伊谷いいのや村、南は神宮寺じんぐうじ村。安政五年(一八五八)に書かれた奥山家古代記(龍潭寺蔵)によると、井伊氏から派出した奥山氏の祖について「元祖俊直、赤佐三郎、墓所横尾村、閑隠清休大居士、承元三己巳年七月朔日」とあり、二代共俊・三代共明まで横尾に居住したと記される。天正一七年(一五八九)に没した龍潭りようたん寺南渓自筆の過去帳(龍潭寺文書)に「妙徳禅尼横尾かち母」「蓮窓浄門禅門横尾カジ」「浄金沙弥横尾カチ」とあり、鍛冶師の居住が知られる。


横尾村
よこおむら

[現在地名]赤穂市有年横尾うねよこお

はら村の南にあり、千種ちくさ川と矢野やの川の合流点が村の西端にあたる。医王いおう山麓を占め、地内の周世すせ(峠)から村内を東西に走る山陽道につなぐ。領主の変遷は慶長二〇年(一六一五)赤穂藩領となるまでは周世村と同じで、元禄一四年(一七〇一)幕府領、享保元年(一七一六)以降幕末まで安志藩領(赤穂市史)。正保郷帳に村名がみえ田高三七四石余・畑高三七石余。


横尾村
よこおむら

[現在地名]中之条町横尾

蟻川ありがわ村・赤坂あかさか村の南にあり、東村境近くを名久田なくた川が西南に向かう。天正一〇年(一五八二)一〇月一九日の真田昌幸宛行状(折田文書)で折田軍兵衛に「尻高領横尾」のうち一七貫が宛行われている。また同一八年一二月一〇日には真田信幸により本領のほか「横尾」の二三貫二三七文などが宛行われている(同文書)。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高三二八石余。寛文郷帳では田方一一四石余・畑方二一四石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では高一千四八二石余、貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では六二〇石余。


横尾村
よこおむら

[現在地名]邑久町本庄ほんじよう

千町せんちよう平野東端の南に広がる丘陵上に位置し、東は小津おづ(現牛窓町)に接する。近世初期は横尾山よこおやま村と称されたが、一七世紀末までには横尾村と称されるようになったとみられる。寛永備前国絵図・正保郷帳に横尾山村とみえ、高一六三石余。「備陽記」には横尾村とみえ、田畑一七町三反余、家数二六・人数一〇〇。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、直高二五二石余で家老伊木氏の給地。


横尾村
よこおむら

[現在地名]大分市横尾・明野高尾あけのたかお一―二丁目など

乙津おとづ川左岸に位置し、北はもり村・猪野いの村。同村から南下した日向道(臼杵・府内城路)が当村を通って南東毛井けい村に向かう。「豊後国志」によれば「海部郡臼杵城道」中の百堂ひやくどう渡があった。江戸時代を通じて臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高七七四石余、横尾村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると、本高五六六石余・出来高二〇八石余、うち田高三六一石余・畑高四一四石余。


横尾村
よこおむら

[現在地名]佐世保市横尾町・梅田町うめだまち春日町かすがちよう

佐世保村の北に位置する。西に将冠しようかん岳、北西にまえ岳がある。江戸時代初期は彼杵そのき郡佐世保村のうちで、北の松浦まつら大野おおの村との郡境近くに堺木さかいぎ峠があった。戦国期には大村氏と平戸松浦氏の両勢力の境目で、峠近くには大村氏の祖という藤原氏に由緒ある春日神社を祀る。正保二年(一六四五)の平戸領内絵図(松浦史料博物館蔵)では佐世保支村として横尾村がみえ、高一六〇石余。


横尾村
よこおむら

[現在地名]加西市北条町横尾ほうじようちようよこお北条町横尾一丁目

栗田くりだ村の南に位置し、中播丘陵北部、高峰たかみね山・小谷こだに城山連山の南麓に立地する。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は市場いちば村と同じ。正保郷帳では田方三二三石余・畑方六二石余。田安家御領知郷村高帳(田安徳川家文書)にはこの高のほかに新畑として二斗六升がみえる。文政七年(一八二四)の年貢取米一七〇石余、ほかに定免延期の条件として増米二升三合を納めている(「増米御請書」山下家文書)。天保一一年(一八四〇)の田安領知村鑑大概帳(田安徳川家文書)では反別は田方二三町四反余・畑方八町六反余、家数一一九・人数五〇八、牛九。


横尾村
よこおむら

[現在地名]朝日町横尾

現朝日町東部の山麓最北端に位置し、北は日本海に面し、東は宮崎みやざき村・篠川ささがわ村、西は沼保ぬまのほ村、南は南保なんぼ村。東をささ川が流れ、北陸街道が村を横切る。正保郷帳では高六〇〇石余、田方三八町八反余・畑方一町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五五五石、免四ツ五歩、小物成は山役五八匁・蝋役九匁(三箇国高物成帳)。享保三年(一七一八)新往還のため二石余の引高があり、延享元年(一七四四)五石余の増高により、天保一一年(一八四〇)の草高五五八石余(「高免帳」杉木家文書)


横尾村
よこおむら

[現在地名]坂城町横尾

南は金井かない村、北は中之条村に接し、東は大峰おおみね山の山地に、西は千曲川に限られる。

村名の初見は慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳に「横尾村 高弐百五石四斗五升五合」とある。宝暦一三年(一七六三)の横尾村々明細帳によれば、家数五八、人数三九五人。幕府領であったが「御林」として二四町余があり、百姓林は少々であった。村の刈敷山は一ヵ所あり、鼠宿・新地・金井との四ヵ村の入会であった。薪山は不足のため、隣村の洗馬せば(現小県郡真田町洗馬)の軽井沢山へ入札で入っていた。


横尾村
よこおむら

[現在地名]岡山市横尾

長野ながの村の北西、すな川の上流にあり、標高およそ一五〇メートル、龍王りゆうおう山東側の高原谷間の村。龍王山の山腹・尾根上には古墳時代後期の円墳群があり、東方、長野村との境界山頂には祭祀跡が残る。集落北の尾根上にある戦国期の城跡は「東備郡村志」に記される天正(一五七三―九二)頃の瀬原佐渡の居城跡にあたるものか。なお豊臣秀吉高松たかまつ城水攻め時に初めは龍王山に本陣を置いたという。


横尾村
よこおむら

[現在地名]英田町横尾

上山うえやま村の東に位置する山間の村。北はみなみ村。正保郷帳に村名がみえ、田一四石余・畑一五石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高八石余・開高五〇石余、村位は下。


横尾村
よこおむら

[現在地名]植木町豊田とよだ

豊田川を挟んで今藤いまふじ村の北東にあり、東は加茂かも村に接する。もとは今藤村のうちで、鎮興ちんこう寺は当地域にあった。享保年間(一七一六―三六)の宣紀時代手鑑に村名がみえる。正院手永に属し、「国誌」には「立山ト云小村アリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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