横越村(読み)よこごしむら

日本歴史地名大系 「横越村」の解説

横越村
よこごしむら

[現在地名]白鷹町横田尻よこたじり

田尻たじり村の北西に位置する。永正一七年(一五二〇)四月一日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「下長井之庄横越郷」とみえ、大立目四郎左衛門より買った郷内南方の合せて田九〇〇刈、岡左衛門より買った同じく郷内南方の「道満屋敷、同田三百苅、畠」などを龍島院に安堵している。大永二年(一五二二)三月一九日の伊達稙宗安堵状(高成田文書)によると岡石見より買った「横越郷之内北方、紀藤次郎在家之内五百苅」などが松岡土佐の娘に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳では本段銭一五貫八八五文。同二二年一月一七日の伊達晴宗安堵状(高成田文書)では舟生彦五良(郎)に松岡土佐の娘が大永二年に安堵された紀藤次郎在家の切田五〇〇刈などが安堵され、同年の晴宗公采地下賜録によると中野常陸介に横越郷内の岡六郎四郎知行分が残らず与えられ、大立目右衛門は郷内当知行分を安堵された。なお大立目氏は棟役・田銭・諸公事を免除され、郷内の総成敗権を与えられた。


横越村
よこごしむら

[現在地名]高岡市醍醐だいご

新又あらまた川の下流右岸に位置。北陸街道(巡見使道)が南部を東西に通る。東ははね村・油屋あぶらや村・たけ村、西は横越新村、北は後正寺ごうしようじ村。村名は順徳上皇が佐渡へ流された折、輿で川を横切ったことによると伝える(戸出町史)。慶長九年(一六〇四)一〇月五日の前田利長判物(「内嶋組御判物等」五十嵐家文書)に村名がみえ、当村など九ヵ村に一千九〇〇俵余の隠田地があり、上開発かみかいほつ村孫二郎に支配が申付けられている。元和五年(一六一九)の家高新帳では戸出又右衛門組に属し、役家数一二。寛永九年(一六三二)の古高八三七石余で、小幡右京(一六一石)・飯尾権右衛門(一四二石余)・伴野喜右衛門(九四石余)など一四人に分給され、ほかに元和元年からの新開高が一一六石余ある(「古高新開指上高物成帳」川合家文書)


横越村
よこごしむら

[現在地名]横越村横越・藤山ふじやま駒込こまごみなど

阿賀野川左岸に沿って立地する大村で、南は沢海そうみ木津きつ両村、北は小杉こすぎ村と耕地を接する。集落は本村のほかに川根谷内かわねやち・藤山・駒込、袋津ふくろづ城山じようやま所島ところじま(現亀田町)など広く分散し、また枝村にはうら新田、荻曾根おぎそね新田・砂崩すなくずれ新田(現亀田町)江崎えざき新田・茗荷谷みようがだに新田・丸山まるやま新田・長潟ながた新田(現新潟市)がある。開発年代は不明であるが、南西の字たてこしは中世館跡と思われ、茶臼や陶質土器片が採取されている。


横越村
よこごしむら

[現在地名]上市町横越

白岩しらいわ川の扇状地に位置し、東と北を白岩川が流れる。西はつじ(現立山町)、南は中村新なかむらしん村。中世には寺田てらだ庄に含まれて横腰と記し、真言宗系統の観音寺があった。現和歌山県高野山こうやさん町の宝亀ほうき院蔵「大日経奥疏由来」奥書に、文明一九年(一四八七)六月二四日に「於越中国新河郡寺田庄横腰観音寺、以北台極楽寺本、写之畢、筆者匡乗 法宜七十九」とあり、また現岐阜県上宝かみたから永昌えいしよう寺蔵の「般若経」奥書には「祐弘書、紙縁安富 檀那寺田庄内横腰住了賢居士」とあり、また「華厳経」奥書に「照庵二世国泰第一座、龍淵祖祐弘書之代奉納之者也、壇那寺田庄内横腰住了賢居士 願主祐弘書之」、「涅槃経」奥書に「壇越寺田庄横腰之了賢居士 祐弘書」、「大集経」奥書に「壇越寺田庄内横腰住了賢居士 願主石田住 祐弘書」とあり、観音寺は大部の経巻を備え、写経活動の盛んな寺であったことがうかがえる。


横越村
よこごしむら

[現在地名]三国町横越

九頭竜くずりゆう川下流西岸に位置し、東は九頭竜川を挟んで新保しんぼ(現坂井町)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「三宅之郷」に含まれていた。村名は正保郷帳にみえ、田方三三二石余・畠方二二〇石余。宝暦一一年(一七六一)の越前国坂井郡横越村差出明細帳(「三国町史」所収)によれば、総石高五五二・三石、田方二四町五反余・畑方一一町八畝余。


横越村
よこごしむら

[現在地名]美濃市横越・藍川あいかわ

長良川右岸に位置し、東部の段丘面に集落があり、西部は山方。東対岸は上有知こうずち村。同村下渡しもわたりとの間に渡船場がある。村名の由来は横蔵よこくら(現揖斐郡谷汲村)から薬師如来が越して来たためというが、川を横に越す地点の意とも考えられる。文禄三年(一五九四)の山年貢申付状(服部文書)に「横越村御百姓中」とみえ、山年貢が京枡一石五斗と定められている。


横越村
よこごしむら

面積:二三・九九平方キロ

阿賀野川と小阿賀野こあがの川の分岐点を頂点とする横越島の一端にあたり、東と南を両河川が境し、北は新潟市、西は同市と亀田かめだ町に接し、中蒲原郡三地域のうち亀田町とともにその北部を占める。北部は亀田砂丘列が走り、遺跡も集中する。横越島のなかでも比較的標高は高いほうで、両河川の分岐する沢海そうみが最も高所にあたる。ここは近世新発田藩が代官屋敷を置いたといわれ、慶長一五年(一六一〇)から貞享四年(一六八七)まで同藩の支藩沢海藩の城下が形成された。集落のほとんどが河川堤防沿いに立地し、阿賀野川沿いに横越・小杉こすぎ、小阿賀野川沿いに木津きつ二本木にほんぎがある。


横越村
よこごしむら

[現在地名]美山町横越

足羽川を隔てて折立おりたて村の東にある。南は今立郡まつたに(現池田町)。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、正保郷帳では田方五六石余・畠方六二石余。


横越村
よこごしむら

[現在地名]鯖江市横越町

文室ふむろ川下流、三里さんり山の西北に位置する。西は東鯖江ひがしさばえ村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西郡中にみえ、高七〇八・三四石。正保郷帳によれば田方六五八石余・畠方五〇石。初め福井藩領、貞享三年(一六八七)幕府領、元禄一一年(一六九八)小浜藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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