日本歴史地名大系 「橋屋村」の解説 橋屋村はしやむら 福井県:福井市旧坂井郡地区橋屋村[現在地名]福井市両橋屋(りようはしや)町北西に三里浜(さんりばま)砂丘が広がり、南は高須(たかす)山を望む。村の中央を東西に走る浜(はま)街道を境にして、三里浜砂丘の方が小橋屋(こはしや)村、高須山の方が大橋屋(おおはしや)村に分れていた。慶長三年(一五九八)の越前国西方塩浜御検地帳(広浜家文書)に「はし屋村」とみえ、同年の越前国下之村小橋屋村御検地帳(「棗村誌」所収)も残る。塩浜御検地帳によると、村内の村浜は二一二間半、名請人は五郎兵衛と前左衛門で、「しほかま 六ツ」とあり、製塩を行っていた。 橋屋村はしやむら 福島県:耶麻郡西会津町橋屋村[現在地名]西会津町新郷(しんごう)三河(みかわ)阿賀川を挟んで河沼郡芝草(しばくさ)村の対岸北方に位置し、耶麻郡大谷組に属した。かつて当地には熊野・八幡・富士など合せて八社が鎮座していて八社(はつしや)村と称していたが、のちに橋屋村に改めたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に橋屋とみえ、高二三七石余。「新編会津風土記」によると家数二二、鎮守は富士神社。文化一五年(一八一八)の村日記では高二一四石余。 橋屋村はしやむら 福井県:坂井郡金津町橋屋村[現在地名]金津町橋屋檜山(ひやま)村の北西、北陸街道の越前国北端にあって加越国境に位置する。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として細呂宜(ほそろぎ)郷内に「たかはたけ・はしや村」と高畠村と併記される。高畠村は「越前国名蹟考」に檜山村の枝村として記される。慶長三年(一五九八)の検地帳(坂井家文書)には一一の屋敷と一一人の本百姓が記されている。正保郷帳によれば田方二一四石余・畠方五一石余。天保九年(一八三八)の御巡国様御通りの節村々案内手控(岡田家文書)によれば、家数一二軒であった。字瓜谷(うりだに)には、江戸時代初期に溜池が作られ、細呂木(ほそろぎ)村と共用してきたが、両村の間で度々争論があった。 橋屋村はしやむら 奈良県:吉野郡吉野町橋屋村[現在地名]吉野町大字橋屋吉野川の左岸、柳(やなぎ)の渡から吉野山へ登る途中の村で六田(むだ)村に隣接する。池田(いけだ)郷のうち。慶長郷帳では一七七・二四石、幕府領(代官大久保長安)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by