檜山村(読み)ひやまむら

日本歴史地名大系 「檜山村」の解説

檜山村
ひやまむら

[現在地名]茂木町檜山

はやし村の東、常陸国境に位置し、村内を那珂川の支流檜山川が北東方に流れる。当村は南北朝期には茂木保内林郷に含まれていた。文和二年(一三五三)から至徳元年(一三八四)までの一連の譲状(文和二年六月一〇日「明阿茂木知貞譲状写」茂木文書など)で茂木氏に伝えられたが、林村からやや遠く隔たった当村は、茂木氏所領の周縁部として庶子に譲られる傾向があった。康安二年(一三六二)の譲状には檜山は一期の間、新三郎朝長に計らい置くとある。しかし至徳元年に檜山村を譲与された満知が嘉慶二年(一三八八)、嫡家を相続するに及んで檜山村も嫡流に相伝されたことと思われる。


檜山村
ひやまむら

[現在地名]金津町樋山ひやま

北潟きたがた湖の東方、加賀国との国境近くにある農山村。江戸時代には枝村として高畠たかはたけ村があった(越前国名蹟考)。室町時代には奈良興福寺領河口かわぐち庄の一部であった。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として、細呂宜ほそろぎ郷のうちに「ひ山村」が記される。また高畠村も「たかはたけ」とみえる。

慶長三年(一五九八)の越前国檜山高畠村御検地帳(樋山区有文書)には一〇戸分の屋敷と十数名の本百姓が記される。安永期以降の宗旨五人組覚・持高覚(同文書)によれば戸数は二〇―三〇軒であった。


檜山村
ひやまむら

[現在地名]磯部町檜山・栗木広くりきひろ

南は浜島はまじま(現浜島町)、西は神津佐こんさ(現度会郡南勢町)に、東は穴川あながわ村に接する。地蔵じぞう川上流の山間にある小集落。「五鈴遺響」には属邑として夏草なつくさくり木広きひろ新田をあげている。天文二三年(一五五四)一二月一九日の伊雑宮仮殿御造営注文(「志摩国旧地考」所引)に「ひやま山原両郷より三百文にて候」とある。近世は和歌山藩田丸領伊勢国度会わたらい郡に属する。慶安郷帳(明大刑博蔵)では村高六四石余、うち田方三六石余、畑方二八石余、柴山草山ありと記し、山間の小村である。


檜山村
ひやまむら

[現在地名]御前山村檜山

那珂川の南方の鶏足とりあし山塊の地にある村。東は下伊勢畑しもいせはた村の相川あいかわ新田、北は上伊勢畑村

寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「檜山村」とみえるが、「水府志料」の檜山村の項には「此村は下野の国境にして常陸なり。峯を境として、野州芳賀郡檜山に隣る。地勢を見るに、芳賀の檜山もこの檜山も、むかし一村と見へたり。野州の檜山を上と称し、是を下と云。貞享三年秋、野州檜山と境を極めし時の証文にも、上檜山、下檜山とあり。されば古上下一村にて常陸なりしや、下野なりしやしるべからず。中古如何してか二村となし、その中分より常野国境となしたるやしらず。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android