「太平記」巻六をはじめ、古老の伝承、現地地形や当時の遺構を大観すると、北は標高約一六〇メートルの吉野川河岸から南は標高八〇〇メートルの山頂
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奈良県吉野郡吉野町の山。大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。歌枕でもあり,吉野の桜を詠む歌は《古今集》に始まるが,平安中期まではむしろ山岳信仰と結びついて雪の山として詠まれることが多かった。吉野の桜を賞した人々は西行をはじめ多数知られ,蔵王堂近くにあった金輪王(きんりんのう)寺を行宮(あんぐう)とした後醍醐天皇は〈ここにても雲居の桜咲きにけりただかりそめの宿と思ふに〉(《新葉集》巻二)と詠じている。国の史跡,名勝に指定されており,吉野熊野国立公園の北端をなし,近鉄吉野線吉野駅から吉野山駅までケーブルが通じる。
→吉野
執筆者:高橋 誠一
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奈良県中部、大峰(おおみね)山脈北端の青根ヶ峰付近から吉野川左岸に至る尾根をさす。しかし、一般にはロープウェー吉野山駅付近から奥ノ千本あたりの尾根をさし、国の史跡・名勝に指定されている。修験道(しゅげんどう)の聖地、また源義経(よしつね)や南朝の史跡の地として名高く、吉野熊野国立公園の北端部を占める。金峯山(きんぷせん)修験本宗総本山の金峯山寺をはじめ、吉野神宮、村上義光(むらかみよしてる)墓、吉野朝宮跡、吉水(よしみず)神社、勝手(かって)神社、大日寺、如意輪寺、後醍醐(ごだいご)天皇塔尾陵(とうのおりょう)、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社、西行庵(さいぎょうあん)などの寺社、史跡がある。吉野山は桜の名所としても知られる。平安中期以降、蔵王権現(ざおうごんげん)の神木として桜を寄進する者が多く、現在では十数万本を数える。下(しも)ノ千本、中ノ千本、上(かみ)ノ千本、奥ノ千本といい、4月中旬、吉野山駅付近の下ノ千本から開花していく。
[菊地一郎]
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…王朝貴族の長谷寺・金峰(きんぷ)詣や南都巡礼などにあやかって民衆の社寺詣などが漸次さかんになったためでもある。
[南北大和の対立]
1331年(元弘1)討幕を目ざした後醍醐天皇の南都遷幸によって元弘の乱が始まり,南都に隣接する山城国笠置山(かさぎやま)落城や大塔宮護良(もりよし)親王の吉野山挙兵などが知られる。翌々33年天皇は討幕に成功し建武新政を始めたが,足利尊氏の反乱に遭い,36年(延元1∥建武3)吉野山に遷幸した。…
※「吉野山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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