橋田邦彦(読み)ハシダクニヒコ

デジタル大辞泉 「橋田邦彦」の意味・読み・例文・類語

はしだ‐くにひこ【橋田邦彦】

[1882~1945]生理学者・教育行政家。鳥取の生まれ。東大教授生物電気を研究。近衛・東条両内閣の文相を歴任し、第二次大戦後戦犯の指名を受け自殺した。

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精選版 日本国語大辞典 「橋田邦彦」の意味・読み・例文・類語

はしだ‐くにひこ【橋田邦彦】

生理学者。鳥取県出身。東京帝国大学教授。近衛・東条両内閣で文相。教育行政に努め、芸術院創設文化勲章制定を行なう。太平洋戦争終結後、戦犯に指名され、自殺。明治一五~昭和二〇年(一八八二‐一九四五

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改訂新版 世界大百科事典 「橋田邦彦」の意味・わかりやすい解説

橋田邦彦 (はしだくにひこ)
生没年:1882-1945(明治15-昭和20)

生理学者。鳥取県に生まれる。東京帝国大学卒業。1914-18年ヨーロッパに留学,22年東京帝国大学教授。実験生理学を専攻し,生物電気の発生に関する研究が多い。40-43年近衛内閣・東条内閣の文相,44年教学練成所長をつとめた。国民学校公布をはじめ一連の戦時教育政策の責任者で,芸術院創設や文化勲章制定にも当たった。敗戦直後自決。小学校の国民学校への改革は,国粋主義思想の鼓吹と科学技術政策の推進という戦時の国家要求を,義務教育制度の分野で具体化することをめざしていた。橋田がこの政策のイデオローグになったのは,彼が禅の研究を通して早くから説いていた,〈東洋精神〉と〈科学〉の学習とは矛盾するものではないとする特有の論法に,超国家主義国家の政治課題が結びついたからである。この方面著書に《行としての科学》(1939),《正法眼蔵釈意》(1940)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「橋田邦彦」の意味・わかりやすい解説

橋田邦彦
はしだくにひこ
(1882―1945)

生理学者、教育行政家。鳥取市生まれ。本姓を藤田といい、16歳のとき橋田家の養嗣子(しし)となった。1908年(明治41)東京帝国大学医科大学を卒業、同大学生理学教室助手となり、生理学を研究。1914年(大正3)ドイツ、スイスに留学、1918年に帰国、母校の生理学助教授となり、1921年医学博士号を取得、翌1922年教授に任ぜられた。生物電気の発生に関する実験を行い、多くの研究論文を発表した。1937年(昭和12)には第一高等学校長を兼任、1940年に第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の文部大臣に就任、次の東条英機(とうじょうひでき)内閣でも留任し、この間に国民学校令の公布、『臣民の道』の刊行、「戦時家庭教育指導要項」や中学・高校の年限短縮の決定など、第二次世界大戦中の教育行政を担当し、1943年に退任した。戦後、戦犯の容疑を受け、昭和20年9月14日、服毒自殺した。

[大鳥蘭三郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橋田邦彦」の意味・わかりやすい解説

橋田邦彦
はしだくにひこ

[生]1882.5.15. 鳥取
[没]1945.9.14. 東京
医学者。 1908年東京帝国大学医科大学卒業後,同生理学教室の助手となり,14~18年ストラスブール大学,チューリヒ大学に留学して生理学を研究し,21年母校の教授となる。のちに第一高等学校校長を兼任。生理学の分野で電気生理学および生化学の確立に功績を残した。さらに,陽明学や『正法眼蔵』の研究で得た知見をもとに独自の教育理念を示し,近衛文麿の新体制運動に参画して,40~43年は文部大臣をつとめた。第2次世界大戦後,戦争責任を追及され,東京裁判に出頭を求められた朝,服毒自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橋田邦彦」の解説

橋田邦彦 はしだ-くにひこ

1882-1945 大正-昭和時代前期の生理学者,教育行政家。
明治15年3月15日生まれ。藤田敏彦の弟。ヨーロッパに留学後,母校東京帝大の教授となり,実験生理学を導入。第2・第3次近衛内閣と東条内閣の文相をつとめ,第二次大戦中の教育行政を推進した。昭和20年9月戦犯に指名され,14日服毒自殺。64歳。鳥取県出身。旧姓は藤田。著作に「行としての科学」など。
【格言など】いくそたび生まれ生まれて日の本の学びの道を護り立てなむ(辞世)

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世界大百科事典(旧版)内の橋田邦彦の言及

【国民精神文化研究所】より

…この研究生指導科は〈転向〉学生・生徒が減少した38年に活動を中止している。第2次大戦の激化とともに,研究機能よりも研修機能が重視され,43年11月に前年発足の国民錬成所と統合されて教学錬成所(初代所長橋田邦彦)に改組された。戦後,その施設や図書を含む什器類の多くは,国立教育研修所を経て,国立教育研究所に引き継がれた。…

※「橋田邦彦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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