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檀石槐 だんせきかいTan-shi-huai; T`an-shihhuai

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

檀石槐
だんせきかい
Tan-shi-huai; T`an-shihhuai

2世紀に鮮卑族を初めて統一した君長。母が口に入った雹 (ひょう) によって受胎したという。勇健で知略に富み,部人に推され大人となった。本営を弾汗山 (河北省) に設け,鮮卑を統一,扶余丁零を退け,烏孫 (うそん) を討ち内外モンゴルを支配。後漢桓帝 (在位 146~167) の派遣軍を退け,国内を東中西の3部に分け,おのおの数人の大人に統治させ,また連年後漢に侵入略奪し,熹平6 (177) 年の後漢派遣軍を大破。光和年間 (178~183) 45歳で死没。

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百科事典マイペディアの解説

檀石槐【だんせきかい】

鮮卑の君長。勇健で知略にすぐれたため,匈奴(きょうど)が崩壊した後のモンゴリアで君長に推され,統一国家を成立させた。領土を東・中・西に分け各族長に統治させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

檀石槐
だんせきかい
(137ころ―181ころ)

2世紀後半、モンゴル平原に君臨した鮮卑(せんぴ)族の大首長(しゅちょう)。152年ころ所属する部族の大人(たいじん)、首長に推戴(すいたい)され、弾汗山(河北省張北県西方、大青山か)を根拠地とした。やがて強盛となり、156年ころには全鮮卑を統合し、またモンゴル平原の遊牧諸民族を服属させ、その領域は東は遼東(りょうとう)から西は敦煌(とんこう)、さらにジュンガル盆地に至った。檀石槐は領域を東部、中部、西部の三部に分かち、それぞれ大人を置いて治めさせ、ときには三部が連携して中国北辺に侵寇(しんこう)し、後漢(ごかん)王朝を悩ませた。中国への侵攻略奪の目的の一つは鮮卑民衆の食糧の確保にあったが、それを補うために東方の漁民を多数移住させてラオハ川(西遼河上流)で漁労に従事させることも行った。檀石槐の死後、その子の和連が世襲したが人望がなく、部衆が離反し、統一勢力は分解した。[佐藤智水]

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世界大百科事典内の檀石槐の言及

【鮮卑】より

…1世紀初め南下して勢力を回復,しばしば中国へ侵入し内属と離反を繰り返した。2世紀半ば,〈大人〉に推された檀石槐(だんせきかい)は,諸部族を連合して大勢力を築いた。このころから各部族でも長の世襲制が始まり,有力部族を中心とする部族連合体を形成,流亡中国人を受けいれて文明化を進めた。…

※「檀石槐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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