日本大百科全書(ニッポニカ) 「檀石槐」の意味・わかりやすい解説
檀石槐
だんせきかい
(137ころ―181ころ)
2世紀後半、モンゴル平原に君臨した鮮卑(せんぴ)族の大首長(しゅちょう)。152年ころ所属する部族の大人(たいじん)、首長に推戴(すいたい)され、弾汗山(河北省張北県西方、大青山か)を根拠地とした。やがて強盛となり、156年ころには全鮮卑を統合し、またモンゴル平原の遊牧諸民族を服属させ、その領域は東は遼東(りょうとう)から西は敦煌(とんこう)、さらにジュンガル盆地に至った。檀石槐は領域を東部、中部、西部の三部に分かち、それぞれ大人を置いて治めさせ、ときには三部が連携して中国北辺に侵寇(しんこう)し、後漢(ごかん)王朝を悩ませた。中国への侵攻略奪の目的の一つは鮮卑民衆の食糧の確保にあったが、それを補うために東方の漁民を多数移住させてラオハ川(西遼河上流)で漁労に従事させることも行った。檀石槐の死後、その子の和連が世襲したが人望がなく、部衆が離反し、統一勢力は分解した。
[佐藤智水]