中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省芮城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄琰(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれる。幼名を玉環(ぎょくかん)という。早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄(げんきょう)の養女となったとされるが、玄の実子とする説もある。才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となったが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召した。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けた。3人の姉は韓国(かんこく)、虢国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊釗(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競った。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名。毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出した。しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめた。38歳であった。兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったという。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだ。
[菊池英夫]
『藤善真澄著『安禄山と楊貴妃』(1972・清水書院)』
能の曲目。三番目、鬘(かずら)物。五流現行曲。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。白楽天の『長恨歌(ちょうごんか)』を基にしている。唐の玄宗(げんそう)皇帝は、死んだ楊貴妃を忘れかね、超能力者である方士(ほうし)(ワキ)に命じて彼女の魂魄(こんぱく)のありかを尋ねさせる。常世国蓬莱宮(とこよのくにほうらいきゅう)に至った方士は、仙界に生まれ変わった楊貴妃(シテ)に会い、玄宗の伝言を伝える。対面の証拠として、楊貴妃は七夕(たなばた)の夜の「比翼連理(ひよくれんり)」の愛の誓いを方士に明かし、いにしえの霓裳羽衣(げいしょううい)の曲に、思い出を込めて美しく舞う。方士の去ったあとに、楊貴妃はひとり泣き沈んで終わる。東洋史上最大の恋物語の艶麗(えんれい)さを、現世とあの世という憂愁のベールを通して描く、独自の幽玄能。異次元の存在がこの世にやってくる能は多いが、ワキが異次元の世界に入ってゆく能はこれ一番である。
[増田正造]
中国,唐の玄宗の妃。名は玉環。永楽(山西省芮城県)出身の蜀州司戸楊玄琰(ようげんえん)の末子として蜀に生まれ,父に死別し叔父楊玄(ようげんきよう)の養女となった。735年(開元23),玄宗の第18皇子寿王瑁の妃に迎えられたが,夫の母武恵妃の死後,玄宗の求めで女冠となり太真の号を授かり,4年後正式に後宮に入り翌年貴妃となった。宮中では娘子の愛称で親しまれ玄宗の寵を一身に集めたのは白楽天が《長恨歌》にうたうとおりであり,皇后と同じ扱いを受けた。3人の姉はそれぞれ韓国,虢(かく)国,秦国の夫人号を授けられ,宮中の出入は意のまま,パンタロン風の衣装に身を固め馬に乗り往来する姿は世人の羨望を集め,一族の大邸宅は甍を接して豪華さを競い,行幸に従うときは各家がそろいの衣装で隊伍を組んだので,五家合隊といわれた。貴妃が政治に干渉した形跡はない。だが再従兄の楊国忠は財務に異能ぶりを発揮して玄宗の意を迎えるかたわら,実力者李林甫に取り入って累進し,李林甫なきあと宰相として実権をふるい反発を買った。安史の乱が勃発し,玄宗に従い成都へ逃れる途中の馬嵬(ばかい)駅で,兵士たちに楊氏一族はあいついで血祭にされ,貴妃も高力士の手で絞め殺された。ときに756年6月,38歳であった。翌年長安に帰った玄宗は隠密裏に改葬させたというが,その所在は不明である。《長恨歌》のあとも小説《楊太真外伝》をはじめ《梧桐雨》《長生殿》などの戯曲にいたるまで,貴妃に題材を求めた文学作品は多い。
執筆者:藤善 真澄
能の曲名。三番目物。鬘物(かつらもの)。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作ともいう。シテは楊貴妃の霊。唐の玄宗皇帝に仕える方士(ほうじ)(道教の呪術師。ワキ)は,勅命を受けて今は亡き楊貴妃の霊魂の行方を尋ね,蓬萊宮(ほうらいきゆう)に赴いて,楊貴妃の霊(シテ)と会うことができた。方士は,貴妃没後の皇帝の嘆きを伝え,ここに来た証拠に,帝と貴妃が交わした言葉を教えてほしいと頼む。貴妃は,七夕の夜に比翼の鳥,連理の枝となろうと2人で誓いあったという話をする。貴妃はさらに,自分はもと天上界の仙女だったが,仮に人間界の楊氏の家に生まれ,帝に召されて深い契りを結んだのだと物語り(〈クセ〉),思い出の霓裳羽衣(げいしよううい)の曲を舞い(〈序ノ舞〉),去って行く方士に頭の飾りを与えてその後ろ影を見送る。クセと序ノ舞を中心にすえた本三番目物だが,唐土の人物である点,一場物に構成されている点など,かなり特異な色合いがある。箏曲の《長恨歌》に影響を与えた。
執筆者:横道 万里雄
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719~756
唐の玄宗の皇后。蒲州(ほしゅう)永楽(山東省芮城(ぜいじょう)県)の人。初め玄宗の皇子寿王瑁(まい)の妃であったが,晩年の玄宗に見出され,いったん女道士とされたのち,744年宮中に入り,翌年貴妃(女官の位)となった。玄宗の寵愛を一身に受け,3人の姉は韓国,虢(かく)国,秦国の夫人,一族の楊国忠(ようこくちゅう)は宰相となり,盛唐宮廷の栄華と退廃の中心となった。安史の乱で逃亡の途中,長安の西の馬嵬(ばかい)駅で楊国忠とともに殺された。
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…御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった6~8枚の花弁がある花が,同じ木に混じって咲くので〈八重一重〉ともいわれている。法輪寺や福禄寿,楊貴妃(ようきひ)などは花弁が15~20枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)には花弁が30枚内外ある大きな花が咲き,これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。…
…中国の京劇の演目。唐の玄宗皇帝より,百花亭で酒宴を開くことを命ぜられた楊貴妃は,用意万端ととのえて待っていたが,皇帝は急に梅妃のいる西宮に行く先を変えられたと知らせが入る。心の懊悩もだしがたく,側に仕える高力士と裴(はい)力士を相手に酒を飲み,飲むほどに酔うほどに胸の愁いは深まるばかり,覚えず大酔する。…
…その最強のものが平廬,范陽,河東の3節度使を兼ねた安禄山である。 だが玄宗はしだいに意欲を失い武恵妃さらに実子寿王の妃楊玉環(楊貴妃)を溺愛し,政治を顧みなくなり,管絃,宴遊にうつつをぬかすありさまであった。李林甫が死に,貴妃の縁につながる楊国忠が実権を握ると,不仲の安禄山は755年(天宝14)11月,君側の奸楊国忠を除くと称して兵を挙げ(安史の乱)洛陽をおとして帝位につき,さらに兵を派して長安に迫った。…
…806年(元和1)に成ったもので,七言で120句の長編物語詩の体裁をもつ。唐代極盛期の玄宗皇帝と楊貴妃の愛の生活をテーマとする。出会い,結ばれてから,安禄山の乱,楊貴妃の死,その後の帝の心境などを,おおむね史実に即しつつ,想像による脚色をも加え,小説的構成の中で華麗に描く。…
…〈ライチー〉ともいう(イラスト)。中国では楊貴妃のために人馬が8昼夜かけて華南より直送されたというほど珍重された亜熱帯の果物。中国料理のデザート用。…
※「楊貴妃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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