江戸後期の浮世絵師で、歌川派の祖。出身は九州と伝えられるが、さだかではない。名は昌樹、俗称を庄次郎(しょうじろう)、のち新右衛門(しんえもん)といい、別号には一龍斎(いちりゅうさい)、潜龍斎(せんりゅうさい)などがある。歌川を画姓としたのは、江戸・芝の宇田川町に住んだことによると伝わる。初め京都で狩野(かのう)派の絵師鶴沢探鯨(つるさわたんげい)に学び、のち江戸へ下って鳥山石燕(とりやませきえん)に師事したといわれる。作域は広く、浮世絵版画、肉筆画ともに多くを描いたが、肉筆画では美人図、浮世絵版画では浮絵に佳作を残している。
なお、豊春門下からは、初世歌川豊国や歌川豊広が出て、幕末の浮世絵界に一大勢力を誇った。
[永田生慈]
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(大久保純一)
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…近景が浮き出て見えるところからこの名が生まれたが,逆に遠景がくぼんで見えるところから〈くぼみ絵〉とも呼ばれた。1740年(元文5)の作と推定される奥村政信の《芝居狂言舞台顔見世大浮絵》などが早期の例で,寛保・延享年間(1741‐48)の第1次流行期に政信と西村重長が,また明和~天明年間(1764‐89)の第2次流行期に歌川豊春が多作している。浮世絵風景画の発展に寄与するところが大きかった。…
…江戸時代に盛行した庶民的な絵画。江戸を中心に発達し,江戸絵ともいう。絵画様式の源流は遠く大和絵につながり,直接的には近世初期風俗画を母胎としている。町人の絵画として,武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが,様式の創造的な展開のために,その狩野派をはじめ土佐派,洋画派,写生画派など他派の絵画傾向を積極的に吸収消化し,総合していった。安価で良質な絵画を広く大衆の手に届けるために,表現形式としては木版画を主としたが,同時に肉筆画も制作し,肉筆画専門の浮世絵師もいた。…
…江戸後期の浮世絵の一流派(図)。歌川豊春(1735‐1814)を祖とする。豊春は明和期(1764‐72)ころから浮世絵制作を始め,役者絵や美人画,肉筆画を描いたが,最も得意とするとともに彼の名を高めたのは浮絵である。…
※「歌川豊春」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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