江戸後期の浮世絵の一流派。歌川豊春(1735-1814)を祖とする。豊春は明和期(1764-72)ころから浮世絵制作を始め,役者絵や美人画,肉筆画を描いたが,最も得意とするとともに彼の名を高めたのは浮絵である。豊春が登場した18世紀後半の画壇は,北尾派が美人画,勝川派が役者絵の分野ですでに勢力を占め,つづいて鳥居清長,喜多川歌麿が一世を風靡(ふうび)するというはなやかな状況であった。こうした中で,歌川派をひときわ強力な派閥に育てあげたのは,豊春の門人歌川豊国である。豊国は寛政(1789-1801)末ころから兆しのみえ始めた社会の美意識の変化を敏感に受けとめ,天明~寛政期の,均整美,調和美に重点をおいた浮世絵の表現をしだいに変形させ,〈猪首猫背型〉人物に象徴されるような,あくの強い形と色彩によって,対象の実在感を強調する様式をつくりあげた。豊国のこの様式は,江戸人の趣向に合致し,歌川派は多くの門人を集め,隆盛への一途をたどった。そして,この勢いは豊国の下から国貞,国芳が出ることによっていっそう高まった。歌川国貞は役者絵,美人画において,豊国の様式を完成させて時代の寵児となり,歌川国芳も〈武者絵の国芳〉の異名をとるように,武者絵をはじめとして,風景画や風刺画などに機智と奇想を交えた作品を生み出し,人気を得た。歌川派には豊春-豊国-国貞・国芳という系列とは別に,豊春-豊広-広重という流れがある。この人脈では豊広門下の歌川広重の出現が重要で,広重は《東海道五十三次》をはじめとする抒情的な風景画によって,この分野での葛飾北斎の独走を阻止し,北斎没後の風景画の第一人者となった。このように,幕末の歌川派は,実力と人気において役者絵,美人画,武者絵,風景画と浮世絵界の代表的な分野を独占し,黄金時代を築いた。明治に入っても豊原国周(1835-1900),月岡芳年がおり,芳年門下から水野年方(1866-1908),鏑木(かぶらぎ)清方らが出るなど,その流れは現代まで続いている。
執筆者:松木 寛
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浮世絵の一派。およそ明和(めいわ)年間(1764~1772)から作品を発表し始めた歌川豊春(とよはる)を祖とし、幕末から明治中期にかけて江戸(東京)の浮世絵界に一大勢力を形成した。とくに豊春門下の初世豊国と豊広によって基盤が固められた。豊広一門からは初世広重(ひろしげ)が出、豊国一門からは初世国政(くにまさ)、2世豊国、初世国貞(くにさだ)(3世豊国)、国芳(くによし)などの名手が輩出した。さらに嘉永(かえい)年間(1848~1854)以降の広重、国貞、国芳ら3絵師の門人数をも含めれば、幕末の浮世絵界は、歌川派の絵師によって占められていたといっても過言ではない。
幕末から明治にかけては、広重門下の3世広重、国貞門下の豊原国周(とよはらくにちか)、国芳門下の落合芳幾(おちあいよしいく)、月岡(大蘇(たいそ))芳年(よしとし)などが開化風俗を描いて、明治浮世絵界の中心的な役割を果たした。とくに芳年は、新聞挿絵の第一人者として聞こえたが、この系統からは水野年方(としかた)が出て、鏑木清方(かぶらききよかた)、伊東深水(しんすい)、岩田専太郎と長く画統を伝えたことが注目されよう。
[永田生慈]
…役者絵も写楽と豊国が活躍した寛政年間にその古典的な完成をみるといえよう。ほかにこの時期の注目すべき成果は,歌川派の開祖の豊春(1735‐1814)による浮絵である。政信らによる前期の浮絵よりいっそう西洋画の遠近表現を正しく理解し,江戸の名所を現実感豊かに表した豊春の浮絵は,人々を合理的な視覚の世界に慣れさせ,浮世絵の風景表現を大いに前進させた。…
※「歌川派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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