印章(読み)インショウ

デジタル大辞泉 「印章」の意味・読み・例文・類語

いん‐しょう〔‐シヤウ〕【印章】

いん。判。印形いんぎょう
[類語]印判印鑑判子ゴム印スタンプ印形いんぎょう印影社印職印役印公印私印実印認め印三文判消印検印烙印拇印

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精選版 日本国語大辞典 「印章」の意味・読み・例文・類語

いん‐しょう‥シャウ【印章】

  1. 〘 名詞 〙 木、角(つの)、石などに、文字や模様をきざみ、印肉で押すもの。印。印形(いんぎょう)。判。はんこ。
    1. [初出の実例]「印章の作、人視て小技とす」(出典:徴古印要(1782)六)
    2. [その他の文献]〔周礼注‐地官・司市〕

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改訂新版 世界大百科事典 「印章」の意味・わかりやすい解説

印章 (いんしょう)

自己を表示したり,あるいは自己の所有,権利・義務などを示す文字,図様を彫刻して,器物,信書などに押すために使用されたもの。西アジアに起源をもつ。エジプト,ヨーロッパにも伝わり,東アジアでも古くより用いられた。日本では印,判,印判,はんこなどともいう。形体,機能,用途等は多様であり,かつ地域,時代による相違,変遷がある。以下,地域に分けてその歴史的展開をあとづける。

古代西アジアの印章は,その押し方の違いによってスタンプ印章円筒印章とに分けられる。スタンプ印章は東アジアの印と同じ押し方をするものであり,円筒印章は軸の中央の小孔に紐を通して身につけ,回転させて粘土に印影をつけた。シュメール人が発明した円筒印章は,諸民族に継承されてメソポタミア文明の最も特徴的な遺物の一つとなった。前5世紀の状況を記したものと推測されるヘロドトスの《歴史》によると,バビロン人は〈各人が印章と手作りの杖をもっている〉と記述されている。この印章はおそらく円筒印章であろう。円筒印章はさらに周辺地域の諸民族にも受容され,多くの模倣品が製作された。その役割は文化的にみて,東アジアにおける中国の印に似ている。印章は一般に所有権を示すものと考えられているが,所有権の実態はよくわからない。従来の研究が,印章に表された図像の彫石美術的観点と図像の宗教的説明にかたよっていたために,印章の機能に関する研究が著しく遅れているからである。印章の機能は封印とタブレットへの捺印であって,封印には粘土塊が用いられた。最古の印章はスタンプ形で,トルコのチャタル・ヒュユクからは土製が,北イラクのヤリム・テペからは土製と石製が出土しており,人面を彫ったヤリム・テペの1例を除いてすべて陰刻の幾何学文をもち,前6千年紀に属する。ハラフ期には鹿,猪,牛などの動物文が見られ,ウバイド期からはヤギ,犬,人間,サソリ,蛇,鳥などとか,狩猟や祭りの場面も加わって多様化した。材料には土製のほかにステアタイト(凍石),大理石,蛇紋岩,アラバスター(雪花石膏),石英などが用いられた。形にも,印章の起源と関連するかも知れない護符形や飾玉形,さらにボタン形,プリズム形など種々あり,ジャムダット・ナスル期には動物をかたどった形が流行した。

 円筒印章が出現したのはウルク期末である。粘土に対しては,回転させて印を捺す方が適していたので,たちまちスタンプ印章に取って代わった。ウルク期の図文は祭儀の場面や連なって歩く動物が多く,ジャムダット・ナスル期にはそれらが形式化する一方で,幾何学文が流行した。初期王朝期Ⅰ期にはシュルレアリスム風の図文,Ⅱ期には獣と闘う英雄,Ⅲ期には饗宴の場面が好まれ,アッカド時代から神々が登場して,名前や肩書を記銘する例が多くなり,ウル第3王朝時代に王を神に紹介する場面が固定,形式化し,銘文で印章を識別する方法が流行して後の時代に継承された。アッシリアおよび新バビロニア時代には,太陽と月の象徴,神,精霊,有翼獣などアッシリアの浮彫と共通する要素が新しく導入されたが,図文構成は前代を踏襲したものにすぎなかった。アッシリア時代にスタンプ形が復活してアケメネス朝ペルシアに引き継がれたが,アレクサンドロス大王の征服後はギリシア彫玉の形態と図文が支配的となり,円筒印章は消滅した。円筒印章にも各種の材料が用いられた。主に愛好されたのは,ウルク期が大理石,ジャムダット・ナスル期が石灰岩と凍石,初期王朝期は蛇紋岩,方解石,貝,アッカド時代には石英と水晶のような硬い石,ウル第3王朝からバビロン第1王朝までは赤鉄鉱,カッシート時代からアッシリア,新バビロニア時代には玉髄やメノウである。

 インダス文明の印章(インダス式印章)はスタンプ形で,普通の大きさは1辺が2~5cmの正方形,背に刻み出してつくった鈕(ちゆう)をもつ。ステアタイト製で1頭の大型動物と数個の文字を刻んであり,印面に硬度を加えるために,アルカリ液を塗って加熱し釉をかけた状態に処理したものもあるといわれる。大型動物は一角獣が多く,コブウシ,水牛,サイ,象なども見られるが,祭儀の場面あるいは樹木と神,動物と神を組み合わせたような図文もある。
執筆者:

エジプトでは,王はもちろん官吏も印章を使用した。官吏の印章には王の名,所有者の名や称号などが記入されていた。円筒印章の使用は,バビロニアからの影響で王朝前時代の末から始まったが,その後この形式はあまり発達せず,新帝国時代以後ほとんど行われなくなった。そのかわり陶製や石製のスカラベ形印章が普及し,ひもや針金を通したり,指輪にはめたりして,携帯された。

エーゲ文明の印章も円筒印章は少なく,大部分はスタンプ形であった。初期ミノス時代には,象牙や凍石で作ったピラミッド形,円錐形,三稜形あるいは四稜形(この形式では各側面を印面とする)などのものがあり,あらい絵文字を彫りつけていた。中期ミノス時代の末には,象形文字を刻んだ三稜形,四稜形のものが多い。ついで後期ミノス時代になると,円形中高のもの,短軸の方向にくぼむか長軸の方向にふくれた楕円形のものが好まれ,動物や魚,複雑な人物構図をモティーフとしていた。ミュケナイの竪穴墳から出土した黄金の指輪も同時代のもので,それらには礼拝,狩猟,戦闘などの場面が扱われている。

有史時代のギリシア・ローマの世界には,エジプトからスカラベの形式が輸入されていたが,エトルリア人を除けば,あまりこれを好まなかった。前5世紀のギリシアでは,背面がただ丸くなっているだけで甲虫の細部が刻まれていないスカラボイドが普及し,神像などのおごそかなモティーフが採用された。しかし,その後の時代の遺物は少なくなり,題材にもアフロディテやエロスなどの感覚的なものが選ばれた。エトルリア人はスカラベ形式を好んだ。ローマの印章には肖像を扱ったものが多い。なお,以上のような古典世界の印章は〈インタリオ〉(陰刻の玉)として,ローマ時代にとくに発達したカメオ(浮彫の玉)とともに,昔から貴重視されている(彫玉)。

中世以来,ヨーロッパでは封印および証印として印章を使用することが多くなった。その材料は,指輪につけた小型の印章では金や宝石,貴石も用いられたが,一般には,黄銅,青銅,銀,銅などで,まれに象牙,石板石,木などもあった。またのちに述べるブラには鋼製や鉄製のものが使われた。押印は,文書に直接行う場合と,文書から垂らした羊皮紙の細片や,ひもなどの端に行う垂下印(ペンデント・シール)の場合とあり,押印材には古くは蠟や粘土,16世紀以後では封蠟,封のり,紙などが用いられた。垂下印では金,銀,鉛などに押すこともあり,この種のものをブラbullaという。印章の形は一般に円形で,つぎに尖頭楕円形(立姿の人物を入れるのに適し,聖職者や貴婦人の印章に多く用いられた)や,盾形(紋章印章の形として採用された)が多く,変わった形のものとして四角形,三角形,ハート形,菱形その他があった。またモティーフによって大別すると,(1)文字印章。(2)絵印章は象徴,宗教的あるいは歴史的主題,建造物,その他を図示したもので,宗教機関や役所などの印章に用いられる。(3)肖像印章は帝王,貴族,聖職者に用いられるが,このうち王のものは表に玉座につく王,裏に騎乗姿の王を表したものが多く,騎士は騎乗姿のものがふつう。(4)紋章印章は貴族や団体の印。以上の4種になる。(2)から(4)までの場合,銘文を伴うことはいうまでもない。以上の種類や形式がいつごろから用いられ始めたかについては異説が多い。金属のブラを封印として使うことは,東ローマのユスティニアヌスあるいはそれ以前にさかのぼるようであるが,教皇が証印として鉛のブラを用いたのが7世紀以来である。蠟の証印は6世紀までに西ゴートの王やガリアの王が,また10世紀には貴族や神聖ローマ帝国の重要な宗教区の司教たちが使い始め,11世紀には聖職者の間で普及した。12世紀には自治体が印章をつくり,13世紀の末までには農夫や商人までも印を所持するようになり,14世紀にはギルドの印ができた。しかしその後,自筆が尊重されるようになると,16世紀ころから印章は軽んじられ,18~19世紀から署名をもってすませるようになり,公文書以外使用されなくなった。
執筆者:

中国の印章はきわめて古い時代から現在までひきつづいて使用され,その制度は周辺の諸民族にも受容されている。歴史的には大別して(1)戦国以前の古(鉩)(こじ),(2)漢代を中心に秦,および魏・晋にいたる漢印,(3)隋・唐以後の印にわかれる。

の最古のものは殷墟から発掘された三つので,銅製,平板環鈕,印面に記号のような陽文の文字があるが,この時代の印章がどの程度用いられたかは明らかでない。西周時代はたしかな遺品はなく,古のほとんどは戦国のもので,官吏が地位の信証として印を与えられ,佩帯して簡牘の封印に用いたことは文献に記載がある。周代古の遺品によると,形制は大小一定せぬが大部分はきわめて小さく,印材は銅製を主として他に金銀玉石犀象陶などがあり,印文は陽刻,陰刻ともにあり,鈕式は環鈕,壇鈕,覆斗鈕,鼻鈕,獣鈕などいろいろある。官・私印の別があり,官印は司馬,司徒,司空など,私印は名のほかに,敬,恭,鉩,王之上士などの字をあらわした〈成語印〉〈吉語印〉,人間や動物の文様を鋳出した〈肖形印〉がある。古が鑑賞の対象となったのは,清朝の乾隆時代(1736-95)からで,歴史は比較的浅い。

秦・漢の印制はきわめて整備し,天子は螭虎(ちこ)鈕の六つの玉璽を用い,臣下はほとんどが銅製で,天子,皇后,諸王などは〈璽〉,高級官僚は〈章〉,一般の官僚は〈印〉の文字の入った印文で,漢初は4字,武帝以後は五行説により5字である。この官印はその官職任命の証拠として授けられ,地位を失えば奪われた。印面は方寸(1寸四方,ほぼ22~23mm四方)で,文字は繆篆(びゆうてん)(模印篆)の書体で陰刻,鈕制は亀鈕,鼻鈕のほか駝鈕(北方異民族),蛇鈕(南方異民族)などで,鈕に孔をあけて〈丈二の組〉という1丈2尺の印綬(ひも)をとおし佩帯する。印綬は百官は身分により上から〈金印紫綬〉〈銀印青綬〉〈銅印黒綬〉と色が定まっていた。200石以上の官印は通官印というのに対し,100石以下は半通印という横幅が半分の印を用いた。私印は一般に官印より小さく,形式は一面印のほかに両面,五・六面の多面印,臣妾印,書簡印など精巧な製品が多く,変化があり美しい。官印はその地位の具体的な証拠であるほかに,簡牘の封泥に用いた。印文が陰刻であるのは封泥に印したとき鮮明に文字があらわれるためである。漢印の鑑賞は宋代に始まり,明・清以降盛大になり,後世の中国の篆刻に芸術的影響を与えたが,その結果,漢印の伝世品のなかには模造されたものも多く,厳重な鑑定が必要である。その点近年出土した実物は確実な証拠として尊重され,陝西省咸陽韓家湾出土の〈皇后玉璽〉,同陽平岡出土の〈朔寧王太后璽〉,山東省嶧県出土の〈平東将軍章〉などの優品がある。とりわけ江蘇省で出土した後漢の〈広陵王璽〉は,江戸時代に福岡県の志賀島で出土した〈漢委奴国王〉印と年代的に近く,日本古代史家からも注目されている。魏晋南北朝の印章は,形式は漢印にならっているが,後代になるほど印は大きくなり,鈕も粗大で印文も変化し劣悪になる。その最大の原因は,西晋から東晋にかかる時期には書写材料の主流は簡牘から紙に変わり,印は封泥に用いるのでなく,紙面に押捺するようになってきたことである。それにしたがい印文は陽刻になる。

隋・唐以後の官印は,方2寸(1寸の長さは時代により異なる)となり,金・元代には10cm以上の印もあった。鈕は長短の差はあるが柱状になり,背に年紀を刻するものもある。印文は〈尚書吏部之印〉〈魏州之印〉などのように官署名を書き,漢の官職印に対して官署印に変わり,官吏は印を佩(お)びず,係の書記が扱うようになる。印文は陽刻,〈九疊文〉という字画をむやみに屈曲させた字体が用いられる。また,金・元・清など非漢民族出身の王朝では,女真文字,モンゴル文字,満州文字の印が使われ,あるいは漢字と併用された印も行われた。つぎに隋・唐以後の私印は官印より小さく,変化に富み,用途も封信のほかに所蔵,鑑定,落款などにも用いた。唐代には書画の鑑識に印を合縫に押す風が普通の習慣となり,唐太宗の〈貞観〉,玄宗の〈開元〉,宋の徽宗の〈政和〉〈宣和〉,南宋高宗の〈紹興〉〈徳寿殿宝〉などは御府の蔵をしめす。実際の書画にみる鑑蔵印としては,元の趙孟頫(子昂)の〈趙氏子昂〉,明末の項元汴(こうげんべん)の〈墨林山人〉〈項子京家珍蔵〉,清の乾隆帝の〈三希堂精鑒璽〉〈石渠宝笈〉〈太上上皇帝之宝〉など著名なものがある。落款に印を用いる風も明以後は一般化し,文人は印にも意を用いて姓名や雅号のみならず,詩句を彫って鑑賞することも行われ,14世紀には青田石に容易に彫刻することが発見され篆刻は文人の教養の一つとなった。これらの私印を雅印とよぶ。それとともに古印の研究が盛んになり,宋代以後金石学とともに発達したが,印譜が世に行われるようになった。その最大のものは清末の陳介祺の《十鐘山房印挙》191冊である。
執筆者:

702年(大宝2)大宝令頒布に際し〈新印様を頒付〉と見えるのが文献上の初見。704年(慶雲1)には〈諸国印を鋳す〉とあるごとく鋳銅印を造って国々に下付したという。これは中国にならって印章の制度を整えようとしたもので,官印の私鋳を禁じ,宮内省の鍛冶司が鋳造して太政官庁を経て諸国・諸省その他の役所に頒布した。このほかの公印を令外(りようげ)印というのに対し,これを令制印と呼ぶ。印の制度は公式令(くしきりよう)に厳重に規定され,天皇印は内印と称し印文〈天皇御璽〉の4字を2行に篆書(てんしよ),陽刻,方3寸(8.7cm)で,外印は方2寸半(7.6cm)とされ,内印を最大としてこれを超すことは禁じられた。令制印は正方形,準公印(私鋳印)には正円・隅取など正方形以外の形もとられた。郡印,郷印,大社寺印などがこれに該当する。印肉はすべて朱(丹)色で,黒印は古代ではわずかに蔵書印として使用されたにすぎない。黒印を古文書に使用するのは中世に入ってからである。こうした官公印以外に私印も造られた。それには家印・個人印の2種があり,758年(天平宝字2)の〈恵美家印〉を初見とする。868年(貞観10)の太政官符によれば中国後漢代の印章観〈印の用たる,実に信をとるにあり,公私これによりてすなわち嫌疑を決す〉の文言をそのまま引用して私印使用を奨励しているから,日本でも中国と同一の印章観を襲用していたと解してよい。古代私印の印文は自己の姓名とは無関係に,たとえば〈去邪行正〉というような印文のものがあり(10世紀),これを文書の紙面に20余おした貴人の例もある。

 古文書における押印の仕方は現代の署名捺印の概念とはまったく異なる。奈良時代には文書の全紙面に少しの余白もなく押印したが,唐朝文書の影響によって平安時代初期には1文書の紙面押印数は減少し,当初は余白を避けて文字面にのみ制限して押印,平安中期には文面の首・尾と中央の3ヵ所,平安末期には押印のまったくない無印文書の出現へと変化した。これは官公印・私印とも同様である。無印文書の特色は発給が迅速で簡便である上に,文書効力には変りがないという点にある。中世においては特例を除いてすべて無印文書となる。とくに武家文書は後期の印判状の出現までは無印で,これは古代末期の無印文書の流れをそのまま継承したといってよい。文書とは無関係に武将が自己の印章を有したか否かという点について鎌倉時代にはその例はないが,足利将軍はこれを有した。足利義満が彼の道号を印文にした〈道有〉印は文書以外の,彼の〈東山御物〉と称した絵画などの骨董品に鑑蔵印として使用した。これらの将軍印は禅林印の範疇に入るものである。戦国時代の武家文書としての印判状の出現を印影のみから速断して令制印の復活と考えることは誤りである。武将と禅宗,武将印と禅林印,その影響の上に印判状が出現すると考えるべきであろう。

印に代わって繁用されたのは花押(かおう)である。花押は古代の署名に源を発し平安中期から発達したサインの一種で,印章に関係はあるが,書札礼の上からは印章より優位にある。花押発展史の上からみた近世は花押衰退期であるが,それにもかかわらず近世初期の手紙には負傷・病気などで花押が書けないからとの理由を記して代りに押印をした例が多い。中世はまして花押優位の考え方が強かった。ところが鎌倉時代に東福寺の聖一国師によって宋朝禅林の印章が伝えられて日本印章史上に革命をもたらすこととなった。日本印章史の二大系統は令制印と宋朝禅林印の両者である。令制印が官公印系であるのに対して禅僧印は私印系であるから,現代印はこの13世紀の禅僧印系である。また13世紀には〈版刻花押〉と称する花押の印章化の新様式が出現した。これは中国の元押(げんおう)の影響であって,花押を版刻したものである。令制印が鋳銅印であるのに対しこの禅林印・版刻花押は木印であった。

 14世紀には禅僧社会では花押に代えて押印の風習が多くなり,また禅宗信者である武家社会がその影響を受容してここに戦国時代の武家文書の印判状の発生と発展を促した。また版刻花押は戦国時代になると〈花押型〉と称して筆書きの花押をそのまま木印に刻して文書の花押代りに使うようになった。署名押印の様式は中世後期より近世へとしだいに定型化し,現行の署名押印様式の母型となった。古文書写しなどに〈在判(ありはん)〉と記されている判は花押のことであるが,これに対して印章は〈印判〉と称した。これによって印章は花押に大きく関係することとなる。古代の自署から発生した花押は時代の推移に左右されてしだいに本質を減退させ,中世後期には印章が花押に代わって証拠のしるしとして使用され,実用面においての印章と花押の交替の時期を迎えたのである。それを印文の上から観察すると,古代~中世前期には梵字印があったが,中世後期~近世にはローマ字印が流行使用されたこともあった。信長印の印文は〈天下布武〉,家康印は〈福徳〉〈無悔無損〉〈忠恕〉等と政治理念・儒教思想の印文を選んだが,次いで家康は〈源家康〉〈恕家康〉〈源家康忠恕〉へと自己の姓・名を印文とする方向へと変遷する。13世紀の禅林印は令制印や準公印が単純な形の正方・正円などであることに対して印形を自由に考案するのが特色であり,壺・鼎・象型などのほかに後北条氏の虎の印のように方印の外郭の上方郭外に虎を横臥させた印章も考案された。中世はまさに印章諸相の発展期である。このことは印肉についてもいえるのであって,古代は朱(丹)色を主に墨が特例としてある程度使われたが,中世後期には青・黄・緑・紫など多種な印肉が使用された。款印(かんいん)は書画におされるが,中国でも唐や宋初には散見しない。やはり宋代禅林の中から出てきたものであって,日本では墨跡の方は鎌倉時代から,絵画は室町時代に入ってから,最初はいずれも禅僧の間に限って行われた。

 近世の印章は概して変化に乏しく発展は停止する。徳川家光以降の歴代将軍の印文もすべて実名家光・家綱などと定型化した。清朝の篆刻の影響によって,江戸時代好事家は自身の特技を生かして多種多様な印章を自作したが,庶民実用の印は認印,その形は平凡な円印・方印などであり,印肉は朱肉の使用を禁じ黒印のみに制限された。庶民の朱肉使用は1868年(明治1)江戸を東京と改称した年の9月からである。近世の行政は〈はんこ万能〉の形式主義であったから,その弊風は現代日本の社会に強く影響している。

特殊な押印方法として〈継目印〉があるが,これは継目判と関係がある。継目判の目的は数枚の文書をのりでついだ場合に,散逸と偽造を防ぐということにあり,文書紙背の継目に花押をすえたのである。その花押を押印に代えたのが継目印である。継目印押印の特色は方印を左方へ傾斜させておす特殊押印法にある。継目印は割印の応用とみることもできる。割印は一つの完全な印を左右に折半して甲乙2者が保管し,これを便宜必要に応じて左右を併合することによってその一致を勘し合わせるので勘合印と称する。中世大内氏が勘合印を海外貿易に使ったのはその一例である。近世初期の徳川氏の伝馬印は2種あり,家康の伝馬印は印文〈伝馬朱印〉に馬子と馬の図様を配した印を伝馬手形におしたが,後期の伝馬印は図様を止めてただ印文〈伝馬無相違可出者也〉の9字を方印に刻した。これを縦に折半して片方ずつに使用して,左右を勘合することによって伝馬手形の偽造防止に利用したのである。

 特殊な印章には鉄製の焼印がある。火印(かいん)と称して古代の牧馬に目印として使用したが,鎌倉時代初期の東大寺大仏殿造営用の材木の点検に俊乗坊重源が使用した槌型印が残っている。《御成敗式目》には〈謀書罪科事〉の条に武士の所領没収に対して,庶民の刑罰は〈火印を面(おもて)におす〉と規定している。このほか花押の場合に庶民が略押をおしたように,筆印(ふでいん)と称して筆軸に墨をつけて文書におす略式押印も行われた。これは鎌倉時代中期以降に例証がみられる。拇印爪印手印(掌印)などは印章であるか花押であるか分類は難しいが,文書効力上の証明手段の一つであり,重要な慣習として注目される。絵画の落款には作家自身の印章がおされるが,花押は今も昔も使われていない。これも印章と花押の相対関係として考慮されることである。
印鑑
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「印章」の意味・わかりやすい解説

印章
いんしょう

金属や硬い鉱物の面に紋様や文字を彫りつけ、その印痕(いんこん)を文書に押し付けて残し、文書の信頼性を保証するもの。その使用がもっとも盛んだったのは中国であるが、その起源は古代オリエントだったようである。中国では古くは「印」といわず「(じ)」または「璽(じ)」といっていたが、秦(しん)の始皇帝が、「われ」ということば「朕(ちん)」を皇帝の専用にしたように「璽」は皇帝のみ、臣下は「印」とよばせるようにしたという。

[伏見冲敬]

中国

中国印章の起源

中国の文献にみえるもっとも早い例は、『春秋左氏伝』の襄公(じょうこう)29年の条に「公還(かえ)りて方城に及ぶとき、季武子(きぶし)、卞(べん)を取る。公冶(こうや)をして問わしむ。璽書して追いてこれに与えて曰(いわ)く、卞を守る者将(まさ)に叛(そむ)かんとするを聞き、臣、徒を帥(ひき)いて以(もっ)てこれを討じ、すでにこれを得たり。敢(あえ)て告ぐと」とある「璽書」とは王の璽をもって封じた命令書である。紙の使用が広まる以前は、木片に文書をしたため、それを紐(ひも)で封じて、封じ目に粘土を詰めて、それに印を押したのであった。これを「封泥(ふうでい)」といい、その遺物が、清(しん)朝の末期以来、大量に発見されている。なお、左伝の記事のある魯(ろ)の襄公の29年は、周の霊王の27年にあたり、紀元前545年で、春秋時代の中葉である。「璽」の様式はいろいろあり、『呂氏(りょし)春秋』の適威(てきい)編に「民の上に於(お)けるは、璽の塗(と)におけるがごとし、これを抑うるに方を以てせば則(すなわ)ち方、これを抑うるに円を以てせば則ち円なり」とある。「塗」とは粘土のことで、そこに四角の璽を押し付ければ四角の形がつき、円い璽を押せば円い形がつくといっている。事実、春秋戦国時代(前8世紀~前3世紀)の印璽が近世になって大量に発見されているが、四角いのや円いのや変形のもの、また文字だけでなく、図様を彫ったものもある。中国では「円筒印章」は用いられなかったようであるが、1面だけでなく、両面から6面に及ぶ多面の印がある。材質は玉(ぎょく)や金などもあるが、いちばん多いのは青銅で、鋳造がもっとも多いが、たがねで文字を彫りつけたものもままある。印面の反対側がつまみになっているものが多く、これを「鈕(ちゅう)」というが、動物の形を鋳出したものが多い。その形によって、「虎鈕(こちゅう)」とか「亀鈕(きちゅう)」とかよばれるが、そのほかに、「瓦鈕(がちゅう)」とか「壇鈕(だんちゅう)」とかいろいろな形があり、塔のような形をした「重屋鈕」などというのまである。

[伏見冲敬]

完成された漢代の印

中国で印がもっとも盛んに用いられ、また制度が整ったのは漢代で、近世になってから印章をつくることを「篆刻(てんこく)」といって、芸術の一部門として発達するようになってから、その模範とし、理想として貴ばれたのは「漢印」であった。「印章」はもともとそれを業とする工人が、美しく整ったものを作製すべく努力をしたのはもちろんであるが、本来、実用品であって芸術とされてきたものではなかった。それが、近世になって、読書人のたしなみとして、詩、書、画とともに篆刻が東洋固有の芸術の一部門に数えられるようになったものである。

 印章には官府から発給される「官印」と、私人の作製し使用する「私印」の2大別がある。「官印」は、文書の封緘(ふうかん)に用いられるだけでなく、それを所持することによって、官吏としての身分を証明するものでもあった。漢印の鈕の下部には紐(ひも)を通すすきまがあり、そこに「綬(じゅ)」とよばれる組紐を通して、その「綬」をもって身体に佩用(はいよう)するのである。戦国時代の末期に活躍した、いわゆる縦横家(じゅうおうか)の一人、蘇秦(そしん)が、六つの国の合従(がっしょう)を策し、六国の相(しょう)の印を佩(お)びて、不遇の時代に侮られた故郷の人々に誇示したということは、司馬遷(しばせん)の『史記』(巻69)に記されて有名な話である。これは、六つの国の代表者としての権限を与えられたことを表明するものである。

 漢代の印は多く青銅製であるために、土中に埋められても損傷することなく、完全なものがたくさん発掘されているが、「綬」は腐敗してしまったらしく、今日までのところ一つも現物は発見されておらず、文献にも詳細な記載はなく、その形もはっきりわからない。また、今日の勲章の大綬のように肩からつり下げたものか、腰に巻き付けたものか、どちらとも知りがたい。

 印と封泥は、三国時代の魏(ぎ)や、その次の晋(しん)のころまではなお使用されていたが、南北朝の末になると、木簡(もっかん)の使用はもはや廃れ、紙が用いられるようになると、紙に朱(しゅ)の印肉で押されるようになり、大きさや鈕の形にも大きな変化が生じた。漢、魏、晋の印はおおむね直径1寸以下であったが、南朝や隋(ずい)・唐(とう)の官印には面積でその4倍以上のものが多い。

 日本ではすべて唐の制度を模倣した奈良朝の印は、官府のも寺社のもすべてやはり大きなものであった。

 中国では宋(そう)・元(げん)時代の官印はやはり大きなものが用いられた。元代には、漢字でなく、パスパ文字の印が用いられている(同じく征服王朝であった清(しん)朝は、満文と漢文を一つの印の中で併用している)。

[伏見冲敬]

篆刻芸術の誕生

宋・元時代から、絵画が画工の手から文人の余戯としての文人画に発達していったように、印章も読書人が自ら手がけるようになり、元代の末に王冕(おうべん)(1335―1409)が、花乳石という専門の工人でなくても容易に彫ることができる石材を発見してから、多くの文人たちがこれを手がけるようになり、明(みん)朝になると、有名な文徴明の子の文彭(ぶんほう)(1498―1573)のように、篆刻の大家といわれる人が現れる。

 文彭に続いて名をあげたのは何震(かしん)(生没年不詳)で、文・何と併称された。このあと、篆刻は独特の芸術として大いに発展したが、清朝になって、浙江(せっこう)省銭塘(せんとう)を中心に多くの篆刻の名手が輩出し、浙派(せっぱ)といわれて後世まで大きな影響を与えている。浙派に対抗して、安徽(あんき)省にも篆刻の一大勢力がおこり、安徽の古名によって皖派(かんぱ)とよばれる。清朝末期の呉譲之(ごじょうし)(1799―1870)、趙之謙(ちょうしけん)(1829―1884)、呉昌碩(ごしょうせき)(1844―1927)などに至って篆刻芸術は頂点に達したが、呉氏の後を継ぐ者はなく、中華人民共和国の斎璜(せいこう)(白石(はくせき)。1863―1957)などは人民芸術家という特別の待遇を受けて尊重されていたが、その画や書と同じく篆刻作品もはなはだ粗暴で、清朝の大家に比ぶべきものではない。清末から民国にかけて、呉昌碩らが結成して篆刻の発展に寄与してきた西泠(せいれい)印社は、このごろふたたび活動を開始し、王福庵などのように、かえって世間的にそれほど著名でない人々が地道な作品をおりおり発表している。

 日本で書道がブームだといわれているように、中国でも「書法」はなかなか盛んで、それに付随して篆刻も書法の雑誌などに掲載されている。日本の書道が現在ほとんど展覧会向けのデザイン強調が主流となっていることの影響を受けているらしく、中国現代の「書法」もだいぶ荒っぽいのが目だつが、篆刻も同様であるように思われ、粗雑なのが多いのは悲しいことである。

[伏見冲敬]

日本

日本の律令(りつりょう)制度は、隋・唐の印章の制度を輸入し、天皇の印(内印(ないいん))は方3寸(8.7センチメートル、1寸は2.9センチメートル)、太政官(だいじょうかん)の印(外印(げいん))は方2寸半、諸司の印は方2寸2分、諸国の印は方2寸と定められ、中央政府で鋳造した銅印が頒布(はんぷ)された。私印は一般には認められなかった。印章は、初め文書の紙面全体または字面全体に押して、証拠のしるしとするのが原則であったが、しだいに文書の要所にのみ押すようになり、まったく捺印(なついん)しない公文書も平安時代中期から現れるようになった。これは花押(かおう)の発生とも関係があり、印章にかわって署名や花押が文書の証拠とされ、それが一般化したためであろう。鎌倉~室町時代の武家文書がまったく無印であったことも、時代の趨勢(すうせい)によるもので、役所の印章よりも、権力者個人の表徴としての花押のほうが、より重要視されたためとみられる。

 官印の衰退とは逆に、中世には私印が発達した。古代からわずかに行われていた私印の風習に加えて、宋代禅林の私印の流行が鎌倉時代に日本に伝わり、禅林風の印章が花押にかわって五山(ござん)の僧侶(そうりょ)間に普及した。書画の落款(らっかん)に用いられることが多く、蔵書印もしだいに多くなった。印面の形体も、正方形のほかに円、楕円(だえん)、小判、壺(つぼ)、鼎(かなえ)、菱(ひし)、矩形(くけい)など各種のものが現れた。木が印材の主流を占めるようになるのも中世からであり、また朱に油を混ぜた朱肉が用いられるようになった。

 私印の流行は、花押の使用にも影響を与え、鎌倉時代に現れた版刻の花押は、しだいに多く使用されて、近世に至ると花押を籠字(かごじ)(文字の輪郭をとる縁どり文字)に刻んで、これを押した上に填墨(てんぼく)する方法も現れ、印章は、自署のかわりとして発生した花押にかわる役目をもつに至った。

 戦国時代の武将は、好んで各種の印章を用い、その発給する文書に押した。これを印判状(いんばんじょう)といい、朱印状(しゅいんじょう)と黒印状(こくいんじょう)の別があった。同じ印文でも朱、墨の2種があり、一般に朱印のほうが厚礼とされた。戦国武将が用いた印章には、吉祥句や政治上の理想を表すものが多く、また神仏の名や、霊力・威力のある動物の図が用いられた。北条氏の「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」、今川氏の「如律令(にょりつりょう)」、織田信長の「天下布武(てんかふぶ)」、上杉氏の「立願勝軍地蔵摩利支天飯縄明神(りつがんしょうぐんじぞうまりしてんいいづなみょうじん)」、武田氏の竜印などが有名である。

 近世においても、徳川将軍に朱、墨2種の印章があり、石高(こくだか)の承認や、渡海証明などに朱印状、黒印状が与えられた。各大名もこれに倣って印章はますます流行した。印章の使用は庶民にも広まって証文に押されたが、百姓・町人は朱印を用いることはできなかった。印章の流行に伴い、印章の正否を判断するため、照合用にあらかじめ印影を登録しておく必要が生じた。この登録台帳を印鑑といい、今日印章のことを印鑑というのは、この転化である。

 明治政府は公印の制度を定め、一般にも証文には花押にかわって登録された実印を用いることが定められた。しかし通常は簡略な認印(みとめいん)や、できあいの三文判が使用され、拇印(ぼいん)が代用されることもある。はんこの煩わしさが問題にされながらも、印章は今日では日常生活に欠かせないものとなっている。

 なお、印影は書道芸術として鑑賞の対象となるものであり、古印や篆刻家の刻印の印影を集めた印譜が珍重される。また印章そのものも美術品として価値の高いものがある。

[皆川完一]

ヨーロッパ

オリエント

印章の起源はきわめて古く、すでに紀元前四千年紀のオリエントでその使用が認められる。その用途は主として王権の表示、認可、封印などであり、粘土板の文書に押捺(おうなつ)された。形式はスタンプ(押し型)とシリンダー(円筒)の二つがあり、後者は粘土板上に回転されることで印影を得た。

 ヨーロッパの印章は、このオリエントの印章が東部地中海域に伝わったことから始まる。そのもっとも初期の例は、前2500年ごろのクレタ島にみられるスタンプ形のもので、オリエント的な獣文や神話的主題に加えて、樹木や海棲(かいせい)動物が印影として現れてくる。素材は凍石、硬玉などの石が主であるが、クノッソス宮殿址(し)からは粘土製の人物文印章も出土している。また、楕円(だえん)形の印面をもつ金製指輪も発見された。クレタ島にやや遅れて、ギリシア本土のミケーネ文明では、クレタの影響のもとに、獅子(しし)、人物、狩猟などの図柄に、ミケーネ本来の主題をみせている。ただし、ミケーネ出土の印章のなかには、クレタで製作されたものが多いことも指摘されている。

[友部 直]

ギリシア・ローマ時代

ミケーネは前1200年ごろからしだいに力を失って、印章製作も不活発となるが、前8~前7世紀ごろにギリシアは都市が力を増し、貴族たちが地位を確立して、印章はふたたび需要を取り戻すことになる。この時期には、エジプトから流入した聖甲虫(スカラベ)形の印章や貨幣形の印章が盛んにつくられ、とくに貨幣とは図柄のうえで密接な関係が認められる。またアテネ市で市の象徴としてフクロウが盛んに用いられたように、スフィンクス、跳ぶ馬、牡羊(おひつじ)などは貨幣にも印章にも愛好された主題であった。アレクサンドロス時代はとくに勅封などの必要で印章の重要性が強まったが、彼自身の玉璽(ぎょくじ)の図柄は不明である。アレクサンドロス以前から、高官たちもすでに個人印をもっていたが、ローマ時代に入ると、印章に自分自身や先祖の肖像を刻むことが行われ、また一般人の間でも神像や牡牛、鳥、仮面などを刻んだ指輪形の認印が普及した。

[友部 直]

中世以降

13世紀ごろまでに、印章は、一定の規約に従って使用される体系を整えてきた。母型の多くは鋳造された銅製で、大きいものは直径10センチメートルを超える場合もある。中世の印章の使用法は、文書などに蝋(ろう)を用いて型を押すものと、文書の末端にリボン、絹紐などを取り付け、これを封蝋する垂下印とに大別される。形は円形のほか盾形や両端のとがった楕円などがあり、主題は象徴や紋章、聖職者、建物など多様である。しかし、18世紀ごろからはしだいに封印としての役割は少なくなる。ナポレオン1世時代やビクトリア時代に、一時的に装飾性の強い印章の復活をみるが、一般に署名に置き換えられるようになり、個人的な趣好で残される場合以外は衰微した。現代では、印章はもっぱら企業体、団体、個人などの保証や認可のしるしとして用いられる。

[友部 直]

『罹福頤・王人聰著『印章概述』(1973・中華書局/邦訳=安藤更生訳『中国の印章』1965・二玄社)』


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百科事典マイペディア 「印章」の意味・わかりやすい解説

印章【いんしょう】

印章の使用は西アジアのウバイド文化期に始まる。はじめは粘土を材料としたスタンプ型印章で,のち材料は玉,金属,木,貝殻,象牙(ぞうげ)などが用いられ,形体も円筒印章(オリエント),スカラベ形(エジプト),盾(たて)形(西欧中世)など種々現れた。印文としては,文字と図様とあり,前者は所有者の姓名・官職など,後者には肖像や紋章などが多い。中国では殷墟(いんきょ)から出土した平板の青銅印に始まり,秦朝になって官制の完備とともに文書の法式も確立し,官私の印も規格化したが,隋唐以後,鑑蔵印落款印など文人趣味が強くなり,印章の鑑賞・研究も発達した。日本の印章は漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印のように中国の制にならったもので,印影として残っているものでは正倉院文書が最古。のち社寺でも用いるようになり,鎌倉・室町時代には禅僧によって自署に印を用いることが伝えられた。室町末期から印判状が盛んになった。明治以降,慣習や法令によって,署名の代りに記名捺印(なついん)が通常となり,印が重要視されるようになった。→花押(かおう)
→関連項目印鑑記名捺印国璽篆刻ハラッパー拇印モヘンジョ・ダロ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「印章」の意味・わかりやすい解説

印章
いんしょう

印,判,印顆 (か) のこと。石,水晶,骨牙,角,金属などに文字や絵を彫り,文書,書画に押して証明とするもの。押印したものを印影,また厳密には真否を確かめるためあらかじめ官庁,銀行などに届け出ておく印影を印鑑というが,両者と印章が混同して使われることもある。歴史は古く前 5000年頃メソポタミアに始り,初めは動物文,幾何学文を刻んだスタンプ型であったが,次第に文字を彫り込んだものや円筒印章も現れた。インドではインダス文明,中国では殷代 (前 1300~1050頃) から使用された。特に中国の印章制度では秦,漢時代から印材 (金,銀,銅など) ,鈕 (ちゅう) ,印綬,印文などにより個人や国家の地位を示すようになった。日本では中元2 (57) 年に中国,後漢の光武帝から与えられたという「漢委奴国王 (かんのわのなのこくおう) 」の金印が最も古いが,印が使われはじめたのは,いわゆる奈良時代,律令国家体制下に中国の隋,唐の印制を模倣した官印からである。その後,平安時代末期には自署の草書体から変化した花押 (かおう) の発生と,律令制の崩壊により印章は衰微した。一方,禅僧たちの中国への往来が盛んとなり,鎌倉,室町時代には自筆に印を用いることが伝わって,書画に落款 (らっかん) の印を押す風が広まった。鎌倉時代以後は大きさ,形も変化に富み,室町時代末,戦国時代には武将,大名も各種の印を用いた。江戸時代には書家らによって中国の印譜 (印影を集めた本) の研究,古印の鑑賞も起り,篆刻 (てんこく) が流行して高芙蓉 (こうふよう) らのすぐれた印人が現れ,印への関心が高まった。現在は署名の代りに記名捺印が通常化し,公的,私的な各用途で重要な働きをしている (→印鑑証明 ) 。

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普及版 字通 「印章」の読み・字形・画数・意味

【印章】いんしよう(しやう)

はん。印判。〔後漢書、公孫述伝〕多く天下の牧守の印し、百官を備置す。

字通「印」の項目を見る

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「印章」の解説

印章
いんしょう

文書などに押す「はん」。古代には太政官その他の出す公文書には,それぞれの役所の印章(官印)が押されていたが,中世になるとみられなくなる。鎌倉中期には,中国で行われていた私的な印章の使用が入宋僧・渡来僧などにより伝えられた。まず禅宗の僧侶,つづいて禅宗に帰依した武士(足利尊氏・同直義(ただよし)など)が使い始めた。ただし画像の賛に押したり,文書の本文部分に押して,署名の代用としては用いられなかった。戦国期になり,しだいに花押(かおう)のかわりに用いられた。近世以降現代まで,いわゆる「はんこ万能」の時代となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「印章」の解説

印章
いんしょう

文書の正当性を立証するために文字・絵画を陰・陽刻し,朱・墨などで押したもの
中国に始まり,印材としては木・金石・角牙などを用いる。わが国では正倉院文書に公印としての角印がみられる。鎌倉時代以後は私印も増加し,戦国時代には花押 (かおう) の代わりに用いられるようになった。江戸時代には庶民の間にも普及。

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世界大百科事典(旧版)内の印章の言及

【タムガ】より

…トルコ語,モンゴル語で印章,商税を指す用語。用例としては主として次の4種類があげられる。…

【篆刻】より

…広義には印材に文字を刻すことをいい,秦・漢以来,印文には多く篆書を用いるところから篆刻と称した。狭義には中国で元末に起こり明代に広まった,詩・書・画・篆刻と並称される文人四芸の一つで,多く書画などの雅事に用いる印章をみずから鉄筆(刀)を用いて主に蠟石(木,竹,陶土もある)に刻する石章篆刻をいう。
[中国]
 中国の印章の制作は,殷代の遺物が発見されており,その後春秋・戦国を経て秦の始皇帝の天下統一ののち,印章上の文字は秦書八体の第五〈摹印篆(小篆)〉に統一された。…

【判鑑】より

…なお,家の系図に歴代の花押影を書き入れて判鑑と称した例(喜連川(きつれがわ)判鑑)もあるが,これは上記の判鑑と機能,目的を異にするものである。 明治以降,印章の証拠力が花押に優越するようになり,照合用の印影を登録する印鑑の制度が整うのにともなって,判鑑は効用を失った。ただ今日でも,花押は大臣の閣議書類などの署記に用いられており,そのため大臣は,就任の初めに各自の花押を登録することになっている。…

【略押】より

…花押を署記するだけの執筆能力のないもの,花押をもたない女性,未成年者などの間に用いられた。12世紀前半の大治~保延(1126‐41)ごろから現れ,中世を通じて,起請文(きしようもん),土地売券(ばいけん)などに多く用いられて17世紀に及んだが,印章(印判)使用の風が16世紀後半から広く庶民の間に広がり,江戸時代に入って,百姓町人が公式の届書に印章を押捺するようになると,17世紀中ごろ(寛永期)を境として,庶民の花押使用が激減し,それにともなって略押の使用例も急速に減少し,やがて消滅する。 略押の形状は多様であるが,丸や三角や楕円形(横型)などの図形的なものと,片仮名〈ナ,ヌ,フ,メ,ワ〉,平仮名〈く,こ,ち,つ,て,と,の,り〉などの文字に類似したものが,比較的多く用いられた。…

※「印章」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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