武原 はん
タケハラ ハン
- 職業
- 日本舞踊家 俳人
- 専門
- 地唄舞
- 肩書
- 武原流家元 日本芸術院会員〔昭和60年〕
- 本名
- 武原 幸子(タケハラ ユキコ)
- 別名
- 俳号=武原 はん女(タケハラ ハンジョ)
- 生年月日
- 明治36年 2月4日
- 出生地
- 徳島県 徳島市籠屋町
- 経歴
- 11歳で一家と共に大阪へ出て大和屋芸妓学校に入り芸事を修業、山村流の上方舞も習う。のち芸者として独立。28歳で上京し料亭・灘万の若女将になる。7代坂東三津五郎、6代藤間勘十郎の支持を得て、昭和7年米川文子の地唄舞研究会で「雪」を舞い、絶賛される。15年より2代西川鯉三郎に師事。戦後、27年50歳で第1回武原はん舞の会を新橋演舞場で開催、舞踊家として本格的にスタートする。すぐれた容姿と高い技芸で、“はんの世界”といわれる独自の舞台芸術を作り上げ地唄舞の花とうたわれた。60年芸術院会員、63年文化功労者。代表作に「深川八景」「黒髪」「葵の上」など。一方、昭和14年より俳句と写生文を高浜虚子に師事、30年「ホトトギス」同人。著書に句集「はん寿」「武原はん一代句集」、随筆集「おはん」「はん葉集」、随筆・俳句・年表アルバムなどを集大成した「武原はん一代」などがある。六本木で料亭・はん居を経営。
- 受賞
- 芸術選奨文部大臣賞〔昭和41年〕「一代さらい会」,文化功労者〔昭和63年〕 紫綬褒章〔昭和44年〕,勲四等宝冠章〔昭和50年〕 芸術祭賞奨励賞〔昭和27年 29年〕,芸術祭賞〔昭和31年 32年〕,舞踊芸術賞〔昭和40年〕,毎日芸術賞〔昭和42年〕,菊池寛賞〔昭和47年〕,花柳寿応賞(第2回)〔昭和47年〕,NHK放送文化賞(第32回)〔昭和55年〕,伝統文化ポーラ大賞(第3回)〔昭和58年〕,徳島市名誉市民〔平成1年〕,東京都名誉都民〔平成1年〕
- 没年月日
- 平成10年 2月5日 (1998年)
- 伝記
- おどりは人生姿―武原はん 片岡仁左衛門芸と美の伝承―日本再発見日本の舞踊 鶴見 和子,西川 千麗,花柳 寿々紫 著渡辺 保 文,立木 義浩 ほか撮影安田 武 著渡辺 保 著(発行元 藤原書店求竜堂朝文社岩波書店 ’03’94’93’91発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
武原 はん
タケハラ ハン
大正〜平成期の日本舞踊家,俳人 武原流家元。
- 生年
- 明治36(1903)年2月4日
- 没年
- 平成10(1998)年2月5日
- 出生地
- 徳島県徳島市籠屋町
- 本名
- 武原 幸子(タケハラ ユキコ)
- 別名
- 俳号=武原 はん女(タケハラ ハンジョ)
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術祭賞奨励賞〔昭和27年 29年〕,芸術祭賞〔昭和31年 32年〕,舞踊芸術賞〔昭和40年〕,芸術選奨文部大臣賞〔昭和41年〕「一代さらい会」,毎日芸術賞〔昭和42年〕,紫綬褒章〔昭和44年〕,菊池寛賞〔昭和47年〕,花柳寿応賞(第2回)〔昭和47年〕,勲四等宝冠章〔昭和50年〕,NHK放送文化賞(第32回)〔昭和55年〕,伝統文化ポーラ大賞(第3回)〔昭和58年〕,文化功労者〔昭和63年〕,徳島市名誉市民〔平成1年〕,東京都名誉都民〔平成1年〕
- 経歴
- 11歳で一家と共に大阪へ出て大和屋芸妓学校に入り芸事を修業、山村流の上方舞も習う。のち芸者として独立。28歳で上京し料亭・灘萬の若女将になる。7代坂東三津五郎、6代藤間勘十郎の支持を得て、昭和7年米川文子の地唄舞研究会で「雪」を舞い、絶賛される。15年より2代西川鯉三郎に師事。戦後、27年50歳で第1回武原はん舞の会を新橋演舞場で開催、舞踊家として本格的にスタートする。すぐれた容姿と高い技芸で、“はんの世界”といわれる独自の舞台芸術を作り上げ地唄舞の花とうたわれた。60年芸術院会員、63年文化功労者。代表作に「深川八景」「黒髪」「葵の上」など。一方、昭和14年より俳句と写生文を高浜虚子に師事、30年「ホトトギス」同人。著書に句集「はん寿」「武原はん一代句集」、随筆集「おはん」「はん葉集」、随筆・俳句・年表アルバムなどを集大成した「武原はん一代」などがある。六本木で料亭・はん居を経営。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
武原はん
たけはらはん
(1903―1998)
日本舞踊家。本名幸子。徳島市生まれ。1914年(大正3)大阪南地の芸妓(げいぎ)学校大和家(やまとや)に入り、山村千代に山村流の舞を学ぶ。30年(昭和5)東京に居を移し、2世西川鯉三郎(こいさぶろう)、6世藤間勘十郎に師事した。流派をたてずに、上方(かみがた)舞を独自の新鮮な舞台の舞として仕上げ、52年(昭和27)から独舞の会を開催した。その美しい容姿を生かした浮世絵うつしの舞姿は無類で、小倉遊亀(おぐらゆき)をはじめ著名画家の作品ともなった。細緻(さいち)精巧な「心の舞」を特色とし、「武原はん舞の会」は91歳まで40回続けられた。『雪』『黒髪』『袖の露』『吉原八景』などのほか、新作にも『のちの雪』『杜若(かきつばた)』『大原御幸(おはらごこう)』など佳品が多い。句集、随筆集もたびたび刊行された。88年文化功労者に選ばれる。
[如月青子]
『句集『小鼓』(1954・琅玕洞)』▽『写真集『舞』(1972・求龍堂)』▽『随筆集『のちの雪』(1978・光風社)』▽『武原はん著『武原はん一代』(1996・求龍堂)』
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武原はん (たけはらはん)
生没年:1903-98(明治36-平成10)
日本舞踊家。本名武原幸子。徳島市出身。1914年大阪南地の芸妓学校大和家に入り,山村流の舞を修得。30年東京に移り,6世藤間勘十郎,2世西川鯉三郎に師事。52年から独舞の会を続ける。美しい容姿と精緻な技芸により〈心の舞〉を追究し,〈動く浮世絵〉ともいわれる独自の世界をつくりあげた。地歌《雪》が有名で,《大原御幸(おはらごこう)》(1976)等新作にも秀作が多い。著書《のちの雪》(1978)がある。85年日本芸術院会員,88年文化功労者。
執筆者:如月 青子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
武原はん
たけはらはん
[生]1903.2.4. 徳島,徳島
[没]1998.2.5. 東京
日本舞踊上方舞の名手。本名武原幸子。 1914年 12歳で大阪の大和屋 (芸妓学校) に入り,山村流の山本千代に舞を習った。 40年頃から歌舞伎舞踊の2世西川鯉三郎に師事。すぐれた容姿を生かした舞姿で,東京で活躍。代表曲に『雪』『葵の上』『帯屋』『黒髪』そのほか新作がある。また 1939年より高浜虚子に師事,『ホトトギス』同人として俳句を詠む。 85年日本芸術院会員,88年文化功労者。
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武原はん【たけはらはん】
日本舞踊家。本名幸子。徳島県生れ。大阪の大和屋芸妓学校で山村流の上方舞を習得,1930年ごろ上京し6世藤間勘十郎らに師事。上方の座敷舞を舞台芸術にまで高め,心を舞う〈動く浮世絵〉ともいわれる独自の世界を作り上げた。また高浜虚子に俳句を師事,俳号は〈はん女〉で《武原はん一代句集》があり,随筆集に《のちの雪》などがある。1985年芸術院会員,1988年文化功労者。
→関連項目上方舞
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武原はん たけはら-はん
1903-1998 大正-平成時代の日本舞踊家。
明治36年2月4日生まれ。大阪の大和屋芸妓学校で山村流の上方舞などをまなぶ。のち東京で2代西川鯉三郎らに師事。昭和27年より武原はん舞の会をひらき,上方の地唄舞を工夫して独自の美の世界をつくる。60年芸術院会員,63年文化功労者。平成10年2月5日死去。95歳。徳島県出身。本名は幸子。俳号ははん女。
【格言など】これでもかというほど稽古しておかないと安心して舞台に立てません
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武原 はん (たけはら はん)
生年月日:1903年2月4日
大正時代-平成時代の日本舞踊家;俳人
1998年没
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